朴念仁の戯言

弁膜症を経て

時を待つ

「待てば海路の日和というから」と言って、イライラする私に、時を待つことの大切さを教えてくれたのは母でした。

長じて、聖書を読むようになった私は、「天の下の出来事には、すべて定められた時がある」というコレヘトの書(3・1)の中に「神のなさることは、すべて時宜にかなって美しい」という真理も知るようになりました。

臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とか隠忍自重(いんにんじちょう)という四字熟語も、時を待つことの大切さを教える言葉でした。

このように願っていることの成就のために、苦しくても我慢して待つことを教えられたはずなのに、私は、日常の些細なことで、それを実行していないことにある日気づき、実行する決心を立てたのです。

私が住んでいる修道院は、大学内の建物の4階にあるので、毎日のように9人乗りの小さなエレベーターで出勤し、帰宅しています。
ある日、階数ボタンを押した後、無意識に「閉」のボタンを押している自分に気づきました。
つまり、ドアが自然に閉まるまでの時間大体4秒ぐらいの時間が待てない自分に気づいたのです。

そして、考えさせられました。
「4秒すら待てない私」でいいのだろうかと。
事の重大さに気づいた私は、その日から一人で乗っている時は「待つ」決心を立てたのです。

この決心は少しずつですが、他の物事も待てる私に変えてゆきました。
待っている間に、小さな祈り、例えばアヴェマリアを唱える習慣もつけてくれました。
学生たちのために、苦しむ人のために、平和のために祈れるのです。
時間の使い方は、いのちの使い方です。
待つ時間が祈りの時間となる、このことに気づいて、私は何か良いことを知ったように嬉しくなりました。

※シスター渡辺和子さん(平成27年5月25日「心のともしび」心の糧より)