朴念仁の戯言

弁膜症を経て

時代が生んだ暴力描く

本田靖春との共通点

後にフリージャーナリストとなった本田靖春は、都立千歳高校の同級生だった。高校1年のときにぼくが務めた生徒会長を、高校2年で本田が引き継ぐことになったが、まだこのころはそれほど親しかったわけではない。ただ、戦後の独特の空気を吸いながら、同じような思いを抱えていたことは確かだ。

本田の作品に「疵ー花形敬とその時代」という、暴力団安藤組幹部だった花形敬の人生を描いたノンフィクションがある。その中で、本田はこう書いている。

「暴力が忌むべき反社会的行為であることは論をまたないが、体制が崩壊して法と秩序が形骸化し、国家権力の行方さえ定かでなかった虚脱と混迷の時代を背景にした暴力を、国民の8割までが中流意識を表明する今日の感覚で捉えたのでは、何も見えてこない(中略)私にとって花形は、千歳中学校における2年先輩であった。彼を暴力の世界に、私を遵法の枠組内に吹き分けたのは、いわば風のいたずらのようなものであった」

戦後、焼け跡に闇市が広がり始めていた渋谷で、己の腕力を頼りに暴力の世界でのし上がっていった花形。その男の人生を通して本田が描いたのは、混沌とし、貧しくも人々が活力に満ちていた戦後という時代そのものだったと思う。

この作品が出る約5年前、ぼくは本田の「誘拐」をテレビドラマ化したのだが、この「吉展ちゃん事件」の犯人の小原保は、ぼくや本田と同じ年だった。小原の人生を知るにつれ、ぼくは彼が映画監督になり、ぼくが誘拐犯になっていてもおかしくない…という気がしたのだ。今思えば、本田が花形に感じたのと同じものを、ぼくは小原に感じていた。

※映画監督の恩地日出夫さん(平成25年11月8日地元紙掲載「ぼくの戦後」より)