朴念仁の戯言

弁膜症を経て

失いしもののために ⑫

「ちょっと待って、あなた。先ほどからこの体とか、不具者だからとかいわれますが、不具者がなんです。障害者がなんです。そんなこと問題ではありません。障害は肉体だけで十分です、精神的にまで不具者根性になっておられるのは情けないじゃありませんか。仕事の第一は手のことではなく、人間ではないでしょうか? 会社ではどんなお仕事をなさっておられたか知りませんが、ただいま伺えば10幾年お勤めのよし、それなれば腕の仕事より頭の働きのほうがはるかにすぐれているはずです。障害者となられて心まで片輪者になり、前後を忘れてうろたえてしまわれたのです。もっともっと男として落ちつき、今日までの会社の仕事に頭をもってどの仕事が適応するか? 今までの会社の行き方に自分のなさる頭の使いかたが山ほどあるはずです。明日といわず、今日これから会社へ行かれて人事の係りの方にお会いになり、大石順教のところへ死ぬ前に一度たずねてまいりましたが、順教にさんざん叱られました。男一人なんという情けない人です。長く使っていただいた会社の仕事の要領はわかっているはず、現場の番人でも使ってもらいなさい。もしそれが駄目なら、守衛でも小使でもさせてくださいと頼んできなさい。それで会社の方がいけないといわれたら、じめじめした顔をせず朗らかに、片腕を取られたというよりも、会社に一本腕をさしあげたと思って、会社には自分のする仕事が残っているという気持ではりきって行ってらっしゃい」

私はこう彼を励まして玄関まで送って出ました。
彼は来たときとちがって、うれしそうに帰ってゆきました。

やがてその翌(あく)る朝、彼は生き生きとした顔つきでまいりまして、
「先生、昨日はどうもありがとうございました。あれからすぐ会社へ行きまして、先生にいわれた通りを人事課へ申しましたところ、それはよかった、とにかくその順教さんに来ていただいてお話もしたいし、また会社の人たちに一つ講演をしてもらいたい、都合のよい日をきめて来てくれといわれましてまいりました。先生どうでしょう? 来てくださいますか」
「エエ、ゆきますとも。それはそれはうれしいことです。喜んでまいりますよ」

私は昨日彼にあんなことを言いはしたが、会社のほうで何といわれるか、いささか不安な気持ちでいましたが、やはり大きな会社の方々のものわかりのよいことを喜んでその日を約し、やがて会社にまいりました。
人事の方々をはじめ、重役さんは私に、
「よく注意をしてあげてくださいました。あのままあの男を会社から引かしましたら、男一人死なせたかもしれません。いや、あの男もこの会社で長く働いてくれました熟練工です。おっしゃる通り、頭さえしっかりしておれば、工場内の監督として働いてもらえると、重役とも相談して今まで通り勤めてもらうこととしました。どうも先生ありがとうございました」

間もなく私は係長の紹介で彼のこの度のことをみんなに語りました。
それから、係長は決して彼を不具者などと見ないで、先輩として指導してもらうようにとの、諭しの言葉をもって紹介をされました。
私は会社側のあたたかい心情に胸が膨らむ思いで、感謝と感激の講演をいたしまして壇をおりました。
文字通り閉会の辞があり、この会はまことに心情のこもった人たちによって感激のうちに終わりました。
その後、月日がたち、このほどある路上でひさびさに彼に会いましたとき、みちがえるほどの風格のととのった人となっていました。

「先生、どうやら自分も男のあゆむ道にすすまれるようになりました。それにいまの女房が実によき主婦で、まことに幸福な家庭をつくっています。喜んでくださいませ」
「いや何より結構なことです。しかし、今後とも注意せねばならぬことは、体の内部に巣食う心の障害のないことです」
と別れました。
何が幸福になりますか。
彼がいま私に第一番に発した言葉の中に、良き女房を得て幸福な家庭をつくっているといったことが、私の生きがいのことのように思え、足も軽くひとり喜んでいました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

失いしもののために ⑪

ある年の秋、私は例によって朝早く庭に出て草を取っていました。
両手のない私とて、足の指先で梅雨にしっとりぬれた杉苔のフワフワとしたなめらかな感触をしみじみと親しみながら、その中から出ている草を根元から引きぬくとき、杉苔の生いたちに障害を除いてやるような、何ともいいしれぬうれしさを私にあたえてくれます。
草の引き方にもいろいろありますが、根強い草は長い柄の鎌を脇にはさみまして取るのですが、草を取ったあとで掃き浄め、うち水をして縁に腰をおろし、庭の枝々の茂った地に、一面の杉苔が水をふくみ、青々とした色の美しさを見せてくれますとき、私ほどの幸福者がどこにあろう? 
一ヵ月のうちわが家にいるときはほんのわずかではあるが、そのわずかなときこそ私にとっては極楽の世界といえる朝のひととき、庭の手入れ、いや、足と体全体の動きで作務のできるそのうれしさ。
手洗いの筧(かけひ)から静かな音をたてて水が落ちています。
どこかでこおろぎが鳴いています。

そのとき誰か、人のけはいがうしろでします。
何心なく振り返りますと、そこに一人の男が立っていました。
私を見て、頭をさげましたが、私はもとより知った人ではありません。
その顔には正気がなく、しかも右の肩から片袖がブラリと垂れ下がっていました。

「あなたは誰ですか。私の家に何かご用でおいでになったのですか」
「ハア、順教先生にお目にかかりたくて上がりました。失礼ですが、あなたが順教先生でしょう? 先ほどからご挨拶をと思いましたが、ご不自由な、しかも両手がございませんのに、うれしそうに楽しんで草を引いていられましたので、声をかけましてお心がみだれてはと、じっと拝見しながら黙ってさしひかえていました」
「マア、それはそれは、さあ、どうぞお上がりください。すぐにまいります」

私は彼を座敷へ通して家の者に茶などを運ばせました。
年の頃は35、6歳でしょう。
あまり品のわるくない方ですが、病気上がりか、何か非常に落ちつかぬ、顔にも力がなく、やがて私が座敷にまいりますと、座布団もしかず座敷の隅のほうにしょんぼり坐って、どこか一つのところをじっと見ています。
もとより出した渋茶も膝の前におかれたままで手にふれたようすもありません。

「先ほどは。順教ですが……何か私にご用が……さあ、どうぞ、座布団をしいてください。お番茶ですが……」
「ハア、ありがとうございます。実は私、死ぬつもりでおりましたが……昨夜ある人から先生のことを聞きまして、とにかく先生にお会いして、この苦しい気持ちをお話しさせていただいてから、死ぬも生きるのもそれからのことと思いましてまいりましたところ、先生らしい方がしきりに草を取っておられます。しかも足の指先で……私はごらんの通り右腕を失って悲観のあまり死ぬ気になっていましたが、先生はいかにもうれしそうに、楽しくお仕事をしておられる……アア私は男として一本の手を取られたぐらいで、なんという恥ずかしいことだと、ご挨拶も忘れて先生からお声をかけていただくまで、何か胸にこたえるものがありまして、ただいまここへ伺ったことがよかったと、しみじみ感謝しておりました」
「それで、私へのお話と申されますのは」
「ハア、実は私、自分の不注意もありまして、不具者となり、会社への勤めもできにくく、それに女房は片輪者の妻といわれるのがいやだといって別れると申します。わたしがいろいろとことをわけて話しましたが聞きいれてはくれません。ついにこのあいだ出て行ってしまいました。私もこんな体になり、何の仕事もできず、生きてゆく道がまっくらになった思いで毎日悲観のどん底に落ちてしまい、身も心も疲れはて、こんな体では死んだがましだと覚悟をしましたが、先ほど申しましたように、先生は女性でしかも双手がないのに強く朗らかに生きておられる、男の私は意気地なしだ、死ぬ前に一度お会いしてと思いまして」
「それはようこそ、そしてその会社のほうはどうなっています」
「事故の始末は、こんな体で会社はつとまりませんので、会社を引きました。何の仕事もできなくなったこの体でどうにも生きる途(みち)がなくなりました」

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

あるがままに

春のような日差しが、とてもまぶしく感じられる。
私の心にも変化が表れてきたようだ。

病をがっちりとつかんで、終活にとらわれて、むなしい日々を送ってきた。
幸せであっても、過ぎ去った楽しかったこと、良かった出来事などを、いつまでも引きずって、これからの短い寿命をどう延ばすかを考えてきた。
しかし、物欲やわがまま欲を得る幸せよりも、「あるがままに生きること」。
それこそが人生後半にふさわしいのではないだろうかと思うようになったのだ。

今や90代や100歳まで生きる人が珍しくなくなった時代。
終活にとらわれているばかりの老後では寂しい。
自分だけの命である。
自然とともに生き、桜の咲くのを何年、何回、健康で多く見られるかが、今の私の夢に変わった。

二本松市の菅原チヱ子さん81歳(平成31年3月5日地元紙掲載)

 

真実の一字 ⑩

翌(あく)る朝いつものように、私のために一時間早く来られた先生は相変わらずにこやかに座につかれましたが、どこか厳かなお声で、
「どうや、昨日の答えはできた?」
「わかりませぬ、いくら考えましてもわかりませぬが、先生はお手々で筆をお持ちになってお書きになられますが、私は口で書きますので、それで先生はカナリアに習えといわれますのでしょう?」
「なんじゃ、それでは半分しかわかっていないじゃないか」
「先生、私にはさっぱりわかりませぬ」
「わからぬ? そんなことわからぬはずはない」
「でも先生、私のような何も知らぬ者には」
「わからぬというのか」
師匠はそのまま何もおっしゃってくださらず、黙ってご本に目を向けていられます。私はとりつきようもなくしばらく自分の膝をみつめておりましたが、
「先生!」
「なんじゃ」
「あの、私、よね子の字を書け、といってくださるのでしょう?」
「そうじゃ、それをいうているのじゃ、よく私のいうたことが悟れた。私はよね子がにくくていうのでない。お前が不憫でならぬ。しかし、可哀想だからといって人の同情にあまえてはならぬ。肉体が不自由だからとて同情してくれるのもそれは今、お前が手がなくて、人がなんとかいっているうちはそれでもええ。人から忘れられたら淋しいものじゃ。私がお前にみんなと同じように手本を書いてやれば私の字のままをお前が習う。ほかのお子たちと同じ字を書く。お前はお前のままの真実の一字を生み出さねばならぬ。それには多くの字を見ることだ。多くの人の文字をひろく見て、その中から、自分の真実の個性がなんであるかを考えて永久に勉強するのだ。書の道は宗教であり、芸術であり、文化の中のすぐれた精神的のものである。人格のあらわれである。わかったなあ。今日は手きびしい私の言葉でだいぶ頭がつかれたらしい、何か甘い物で茶を一服たててあげよう」

先生は座を立たれて、次の間の水屋から何かお菓子を持ってこられました。
「よね子、良い物があった、私の好きなお骨があった」
先ほどからのお師匠のお諭(さと)しの、情のこもる一つ一つのお言葉が胸の底までしみいりまして、かたじけなさにお返事もできませず、今にも落ちようとする涙をむりにおさえていました。
「さあ、お菓子から食べさせてあげよう」
先生はそうひとりごとのようにいわれて、私にお骨というお菓子をとられ、二つに割られて私の口へおいれくださりました。その先生のお手の拳の上に一滴私の涙が落ちました。ためていた涙が、ついに先生のあたたかい、そのお心の手にこぼれました。
「どうしたんだ、お骨を食べさせてもらって泣くことがあるか。これは駿河屋のようかんや。私はこのようかんを長くしまっておいて堅くなってから食べるのが楽しみでなあ。小僧の時分から好きで私の師匠の坊がよくのこしておいてくだされたものじゃ。お骨になったようかんを口にするたび師匠の深い情けを思い出す。さあ、今度はお茶や」
先生が自らお茶をたてて飲ましていただくお服かげんのご挨拶も言葉に出ませず、先生の膝の前にとめどもなく涙がこぼれ、師のお衣までぬらすのでした。

「先生ありがとうございます。よねは勉強いたします、どんな苦しいことがありましても勉強いたします」
「そうや、お前のこれからの人生には難行苦行が待っている。私がつねにいうている言葉はみな私の遺言やとおもうてなあ、決して苦労に負けるなよ。ただ勉強だ。勉強のほかに何も思うな」

私の心は尊い師の教えに胸の底までひきしまる思いでした。
師のご恩は後々にいたるまで、どれほど私の人生の上に尊いものでありましたでしょうか。永久に忘れえぬありがたいお諭しでございました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

真実の一字 ⑨

私のような者をひろいあげ、教え導いていただきました恩師藤村叡運御僧上のことを申し上げたいと思います。
当時藤村叡運御僧上は大阪生玉にあります真言宗持明院のご院主でありました。
現代の兼好法師ともいわれた方で、歌人としてまた国文学の大家として著名な方でありました。
私が初めて持明院へ伺いましたとき、まず最初に申されましたのは、
「あんた女子(おなご)で、双腕(もろうで)のないことを悲しんでいただろうな。辛い不自由な一生を送らねばならぬと泣いている?」
「いいえ、私いまさらそんなこと思って泣いてはいませぬ。それよりも心の片輪を悲しみます。心の片輪は学問の勉強と修養によって努力すれば身に応じた幸がえられると思います。先生、私どんな辛い修行も喜んでいたします。いけないところはお叱りくださいまして、どうぞお導きくださいませ」
「フーン、えらいこというなあ。体の具合より知識の足りないのが悲しいと……なるほどそうじゃ。あんた知っているか、むかし、″塙保己一はなわほきいち)″という盲人のえらい学者があった。多くの眼の開いたお弟子たちがあって、ある晩の講義のとき、風のために灯火が消えた。するとお弟子たちは″先生ちょっと待ってください、今灯火が消えまして字が見えません″と申しますと、塙先生は″さてさて眼明きは不自由なことだなあ″といわれたそうな。さあ、そこや、この言葉をよく胸にたたんで勉強しなされ。あんたは小鳥が口一つで雛を育てているのを見て、口で字を書きだしたそうやな。ものを習うというのは鳥が教えたのや。字で書けば、羽、白し、と書いて習うという。親鳥が子鳥に飛ぶ様を教えるが、どんな鳥でも羽根を開いて飛ぶときは羽根の裏はみな白い、それをいうたものや。あんたが小鳥を見て発憤したのも、何か教えられたものがあるのだろう? 私の講義は朝の9時から午前ちゅうだが、あんた8時から来て今日のみなにする講義のところを前に教えてあげよう」
と、心からのあたたかいご同情によって、私はこの師匠のもとへ通わしていただくようになりました。

さて国文学の講義と申しましても、平仮名さえ読めぬ知識の乏しい私が、源氏物語や万葉などと、むつかしい講義を聴かせていただいてもわかるはずはありませぬ。来ておられる方々は女学校を出た方や、専門の人たちです。その中へ無智な私が飛び込んでその同じ講義を聴かせてもらいますのは、あまりにもむりな願いでありました。中には私に侮蔑の眼を向けられる人たちもありましたが、私はただ勉強のほかに何もありませんでした。

師匠はその私の耐え忍ぶ心を察しられて、いつも私をご自分のとなりの席へ坐らせてくださり、
「この子は両手がないゆえ本が開けられぬから、私の本を見せてやるので、私のそばへおいておく。可哀想に、何もできないのでなあ」
こうしてみんなにいわれますのを、私はありがたいと胸のせまる思いで感謝しておりました。
やがて一年も過ぎました。師匠は毎週塾の方々に字のお手本を書いておあげになりますのに、私には何も書いてくださいませぬ。もとより私は、他のお弟子たちと同じような文字を習う資格はありませぬ。それなればそのような習いやすいお手本を書いてくださればよいのにと思い、ついたまりかねて、私はある日師匠に、
「先生、私にも字のお手本をお書きくださいません?」
と、申しますと、師匠は、
「なんじゃ、私に手本を書けというの? それは書いてやれん、他のお弟子たちには書いてあげても、お前には私は書いてやれん、お前はお前の先生に習えばよい」
「私の先生、私の先生は、お師匠さまよりほかにはございませぬ」
「なんじゃ、何をとぼけているのじゃ、お前の先生はカナリアという小鳥じゃない?」
「でも先生」
「何が先生じゃ、よく考えて明日答えを聴こう」
といつもの先生とは思えぬきびしいお声でありました。
私はとりつきようもなくおいとまいたしましたが、帰る道すがら一心に考えましたが、もとより教育のない私に、何のよろしい答えが出てきましょう?

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

種蒔く人 ⑧

このようなわけでこの札幌の本屋さんが、私にとりまして大恩人でございます。
自分で行きますればたいへんな費用がかかりますが、厚生省から行けといわれる。こんな結構なことはございません。
まず札幌に行って、50銭の大辞林をくださったあの本屋さんに会いたい。
もう亡くなっておられたら、せめてご家族の方にでもお目にかかりたいと思って、喜んで札幌にまいりました。

たくさんの方のお出迎えをいただき、さてホテルに落ち着きまして、身体障害者の会の理事長さんに、
「私は札幌にお招きにあずかり、二つ返事でまいりましたが、これにはわけがあるのでございます。実は札幌の本屋、そのころこんな形のこんな本屋さんでございましたが、その本屋のご主人がご健在なら、私はこれほど倖せはございません。せめてご家族の方にでもお会いすることができましたら、そのときいただいた大辞林のお礼が申しとうございます」
と当時のお話を申し上げますと、理事長さんが、
「はあ、不思議なめぐりあわせですね。その本屋なら私の親父ですよ」
とこうおっしゃいます。
「へえー、理事長さんのお父さんでしたか。まだご健在ですか」
「健在も健在、80幾つで、ピチピチしております」
こう聞きましたときは、涙が出るほどうれしゅうございました。

「じゃ、会わせてくださいますか」
「会うも会わんもありませんよ、親父よろこびますよ」
とすぐに電話してくださいました。
さっそくまいりましたところ、もう白髪のご老人、いまは札幌の富貴堂という百貨店の社長さんになっていらっしゃいました。
お目にかかるなり、
「そうですか。あなたでしたか」
と社長さんも感慨深げでございました。

「私は社長さんから、そのとき50銭でしたが、あんたの気持がうれしいから、この本をあげましょうといって、大辞林をいただきました。それから字を引くと申すより、ちょっとの時間があれば、その本を開いてめくら滅法に、いつでもその大辞林を見ていました。そのとき教えていただきました聖書もございます。この二つをいまも座右に大切にいたしております」
「そうですか。大辞林のことは記憶にはありませんが、キリスト教がわからなくて、てこずらされたことは覚えておりますよ。どうでしょう、私の店には店員が200人ばかりおりますが、今晩店が閉まってから、お話をしてくれますか」
「ええ、喜んでさせていただきます」
とお約束したのでございます。

当夜、演壇に立ちまして、仙台から北海道への巡業の道順を申しまして、札幌にまいり本屋さんに行ったところまでお話し申しますと、社長さんが、
「ちょっと待ってください、もうたまらんから私にしゃべらせてください」
といってお起(た)ちになりました。
「どうです、みなさん、私は宗教ということ、信仰ということは結構だとは思っておりますけれども、こう如実にあらわれるとは知らなかった。今聞かれたように、手のない人が飛び込んできて、字引きがわからない、何か適当なものをといわれて出したのが、大辞林であったそうです。50銭のお金はいらん、あんたにあげましょうといって、その本をあげた。その大辞林でもって勉強されたということはうれしいことじゃありませんか。蒔かぬ種は生えぬということを、みなさんがたによく申しましたね。きょう種を蒔いて、すぐあす実るものではありません。40年前に差し上げた大辞林が縁となって、きょう、この札幌に来てくださった。口でものを書くようになられた今日までの努力の源が50銭の大辞林であったかと思うと、たまらないほど私はうれしい。どうかみなさんもいい種を蒔いてください。種を蒔かずして、どうして花が咲くでしょうか。よい種は蒔きたいものですなあ。―さあ、これだけ言わせてもらったら、あとはどうぞ続けてください」
といって退かれました。店員の方々が声をあげて泣いていらっしゃいました。

この話がいいニュースだというので、地元の新聞はもとより、東京の新聞にまで取りあげられたのでございます。
社長さんが、蒔かぬ種は生えぬとおっしゃってくださいましたお言葉が、ほんとうに私は身にしみてうれしゅうございました。ああ、札幌に来てよかったと思いました。
今年の年賀状にも「あんたからものをもらって、代筆ではもったいない」とおっしゃって、「相変わらず活躍してください。私も80幾つでも負けませんよ」と書いてございました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

身を賭し子を守った父

今年も北海道は、厳しい冬のようです。
この時期になると、6年前に発生した痛ましい事故が思い出されます。

猛吹雪の日、父が車で小学3年の娘を児童センターに迎えに行きましたが、帰りに車が雪に突っ込んでしまいました。
ガソリンが少なかったことから、近くの建物に避難しようとしたもののそこの鍵が開きません。
雪の中で娘に自分のジャンパーを着せ、10時間娘を抱き続けましたが力尽き、亡くなったのです。
娘は軽い凍傷で済みました。

このニュースを聞いた時、目頭が熱くなり、自分の命を賭けて子どもを守ったことに、本当の親の姿を見ました。

「しつけ」と称して、子どもが亡くなるまで体罰を続ける事例が報じられる昨今です。
「子は親の背中を見て育つ」という言葉を思い出します。

里山を歩くと、よく道端にお地蔵様を見掛けます。
お地蔵様は人間界の一番近くにいる仏様だと聞きます。
亡くなった子どもたち。
そちらには体罰もいじめもないと思います。
楽しく遊んでください。
そしてお地蔵様、そんな子どもたちを、優しく温かい家庭に生まれ変わらせてください。

郡山市の横田良夫さん67歳(平成31年2月24日地元紙掲載)