朴念仁の戯言

弁膜症を経て

失いしもののために ⑪

ある年の秋、私は例によって朝早く庭に出て草を取っていました。
両手のない私とて、足の指先で梅雨にしっとりぬれた杉苔のフワフワとしたなめらかな感触をしみじみと親しみながら、その中から出ている草を根元から引きぬくとき、杉苔の生いたちに障害を除いてやるような、何ともいいしれぬうれしさを私にあたえてくれます。
草の引き方にもいろいろありますが、根強い草は長い柄の鎌を脇にはさみまして取るのですが、草を取ったあとで掃き浄め、うち水をして縁に腰をおろし、庭の枝々の茂った地に、一面の杉苔が水をふくみ、青々とした色の美しさを見せてくれますとき、私ほどの幸福者がどこにあろう? 
一ヵ月のうちわが家にいるときはほんのわずかではあるが、そのわずかなときこそ私にとっては極楽の世界といえる朝のひととき、庭の手入れ、いや、足と体全体の動きで作務のできるそのうれしさ。
手洗いの筧(かけひ)から静かな音をたてて水が落ちています。
どこかでこおろぎが鳴いています。

そのとき誰か、人のけはいがうしろでします。
何心なく振り返りますと、そこに一人の男が立っていました。
私を見て、頭をさげましたが、私はもとより知った人ではありません。
その顔には正気がなく、しかも右の肩から片袖がブラリと垂れ下がっていました。

「あなたは誰ですか。私の家に何かご用でおいでになったのですか」
「ハア、順教先生にお目にかかりたくて上がりました。失礼ですが、あなたが順教先生でしょう? 先ほどからご挨拶をと思いましたが、ご不自由な、しかも両手がございませんのに、うれしそうに楽しんで草を引いていられましたので、声をかけましてお心がみだれてはと、じっと拝見しながら黙ってさしひかえていました」
「マア、それはそれは、さあ、どうぞお上がりください。すぐにまいります」

私は彼を座敷へ通して家の者に茶などを運ばせました。
年の頃は35、6歳でしょう。
あまり品のわるくない方ですが、病気上がりか、何か非常に落ちつかぬ、顔にも力がなく、やがて私が座敷にまいりますと、座布団もしかず座敷の隅のほうにしょんぼり坐って、どこか一つのところをじっと見ています。
もとより出した渋茶も膝の前におかれたままで手にふれたようすもありません。

「先ほどは。順教ですが……何か私にご用が……さあ、どうぞ、座布団をしいてください。お番茶ですが……」
「ハア、ありがとうございます。実は私、死ぬつもりでおりましたが……昨夜ある人から先生のことを聞きまして、とにかく先生にお会いして、この苦しい気持ちをお話しさせていただいてから、死ぬも生きるのもそれからのことと思いましてまいりましたところ、先生らしい方がしきりに草を取っておられます。しかも足の指先で……私はごらんの通り右腕を失って悲観のあまり死ぬ気になっていましたが、先生はいかにもうれしそうに、楽しくお仕事をしておられる……アア私は男として一本の手を取られたぐらいで、なんという恥ずかしいことだと、ご挨拶も忘れて先生からお声をかけていただくまで、何か胸にこたえるものがありまして、ただいまここへ伺ったことがよかったと、しみじみ感謝しておりました」
「それで、私へのお話と申されますのは」
「ハア、実は私、自分の不注意もありまして、不具者となり、会社への勤めもできにくく、それに女房は片輪者の妻といわれるのがいやだといって別れると申します。わたしがいろいろとことをわけて話しましたが聞きいれてはくれません。ついにこのあいだ出て行ってしまいました。私もこんな体になり、何の仕事もできず、生きてゆく道がまっくらになった思いで毎日悲観のどん底に落ちてしまい、身も心も疲れはて、こんな体では死んだがましだと覚悟をしましたが、先ほど申しましたように、先生は女性でしかも双手がないのに強く朗らかに生きておられる、男の私は意気地なしだ、死ぬ前に一度お会いしてと思いまして」
「それはようこそ、そしてその会社のほうはどうなっています」
「事故の始末は、こんな体で会社はつとまりませんので、会社を引きました。何の仕事もできなくなったこの体でどうにも生きる途(みち)がなくなりました」

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より