朴念仁の戯言

弁膜症を経て

花と私

カーネーション白い花の思い出
時には花に慰められたり、勇気をもらったりした。65年前、私が小学生の頃だ。「明日は母の日です。お母さんに赤いカーネーションを一輪あげましょう」と担任の先生が話された。私の母は私を産んだ1年後に病で他界していた。当日教室で先生が私のために白いカーネーションを手渡してくれた。先生の心遣いと白い花は、今も忘れられない思い出だ。
還暦の時に病で倒れた。リハビリをしていたが、動きの悪い足をカバーしての歩行訓練は気持ちが入らなかった。そんな時、雑誌で鉢植えの花に責任を持って水やりをする歩行訓練があることを知った。「プランターセラピー」という方法で、「花の命を守る」という気持ちに引っ張られ、訓練に勇気をもらった。
退院した春、近所の桜の名所に出掛けた。満開の花を見上げるように、つまようじほどの枝に凛と咲いていた一輪が目に飛び込んできた。「散る桜残る桜も散る桜」を思い出し、半身まひでも生かされた命である。散る間際まで現世を楽しみたいと思った。

郡山市の日下博和さん76歳(平成30年2月4日地元紙掲載)

 

いとおしくなる路傍のタンポポ
私は人間ドックで運動不足を指摘されてから、30年間ジョギングを続け、郡山市民マラソンにも参加してきた。冬はスポーツジムで走るが、外気温が10度くらいになればロードで走るようにしている。3月に入ると、郡山市を流れる逢瀬川から阿武隈川の南に面した土手に、黄色いタンポポの花がぽつりと咲く。
花が咲き誇る季節になればタンポポなど見向きもされないのに、寒さを押しのけて一番先にお日様に向かって花弁を広げる美しさに、私は足を止めて見ほれる。花の命は短いが、与えられた条件の中でわずかな期間、精いっぱいお化粧をして艶を漂わせ人の心を癒してくれる路傍の花…。
若い頃なら見向きもしなかったものが、どのようにして咲くまで頑張ったのかということを考えると、いとおしくなった。自分の人生に重ねて、「そんな時代もあったのか」と若い頃を振り返り、健康な今を楽しみなさいと励まされるようにも思えた。

郡山市の渡辺成典さん72歳((平成30年2月4日地元紙掲載)

 

やむを得ざるにせまりて

やむを得ざるに薄(せま)りて、しかる後にこれを外に発するものは花なり。(佐藤一斎『言志四録』)
一斎によれば、花は人に誉められるために咲くのでなければ、蝶や蜂のために咲くものでもない。準備万端ととのって、自然に、やむにやまれなくなって蕾(つぼみ)を破って外に咲き出すのが花だというのです。内に漲(みなぎ)る大生命の発露が花だというわけです。
これを子供達との生活に置きかえて考えてみましょう。つい「あの子のために、こんなに苦労しているのに」などと、つまらぬ愚痴をこぼしてしまいますが、そう言っているうちは本物の愛情ではないということなのでしょう。
相田みつをさんの詩に、「あんなに世話をしてやったのに、あんなに親切にしてやったのに、あんなに一生懸命尽くしたのに、のに…のに…のに…。「のに」が出ると愚痴になる、花は人間のように、「のに」なんて愚痴はひとつも言わない、だから純粋で美しいんです」とありますが、私どもの仕事も「あなたのために、こんなに苦労してやっているのに」などという気負いは捨てて、親として、内からほとばしり出る、やむにやまれぬ自然な情感の発露から出たとき、それは花のごとく美しく見え、子どもたちに通じていくのではないでしょうか。
ヘレン・ケラーの家庭教師サリバン先生は「Education  is  to  give  and  give」と言いました。「give  and  take」ではなく、「give  and  give」の本物の愛情であったからこそ、ヘレンの心の扉を開くことができたのでしょう。
私自身も「やむを得ざるにせまりて」の心でと自戒しているところです。

※土屋秀宇さん(平成22年4月27日地元紙掲載)

 

孤独死

私はその人が亡くなったことを新聞のお悔やみ欄で偶然知った。その人というのは、同じ町内に住む80歳を過ぎたお年寄りだった。夜中に救急車が来てそのまま亡くなったという。
夫婦二人暮らしで、奥さんは寝たきりの状態だった。近所付き合いがなく週2回来るデイサービスの車をときどき見かけた。また、そのご主人が旅行に行った時、私の勤めている店まで土産を届けてくれた。
私は後悔の念にかられた。高齢者にはこちらから歩み寄ることが義務ではなかったか、どこかで救いを求めていたかもしれないと。「孤独死」とは本来、現代社会がつくり出した言葉であり、人間の社会に反したものであって、家族や地域の人たちの力で防ぐことはできる。
その人は他人の世話になることが恥ずかしい、という思いを持っており、奥さんの面倒も一人で見ていた。だが、高齢者が人の力を借りて生活することは、社会の仕組みとして当然だと思う。同時に家族の介護をしている人が「不安・うつ」状態に陥らないよう注意する地域の取り組みは重要だと思う。
各市町村の訪問介護などの充実性は大きな課題だ。あまりにもさびしい「孤独死」はあってはならない。

喜多方市の青山由美さん(平成22年4月6日地元紙掲載)

 

バレンタイン命日

11年前に逝った父の祥月命日は2月14日、バレンタインだった。享年73は若すぎるけれど、54歳で最初の脳梗塞発作を起こし、以後、いくら言っても喫煙を止めなかったゆえ、さらに二度の発作で寝たきりになり、関節リウマチや心筋梗塞を併発した果ての肺炎による死亡だった。
上州の家で連れ合いが介護しており、冬季にはいくつかの私立病院に入院した。毎年秋に彼女からの電話で、いつごろ、どこの病院に入院させればよいか、と問われるのが苦痛だった。息子が医者なのだから自分の勤務する病院に入院させれば簡単だろうと世間に思われるのが辛かった。
専門医療を必要とする患者さんでいっぱいの公立の総合病院に、緊急を要しない病人を収容する余裕はない。そういって多くの患者さんを他院に紹介してきた身が、自分の父親だけを特別扱いするわけにはいかない。そこで、空きベッドのある私立病院に頭を下げて入院をお願いしてきた。古い家なので寒くて置けないので冬場だけなんとか、と。
連れ合いが付き添うために個室が必要だったから、毎年のこととなるとかかる費用はばかにならなかった。最後の年は連れ合いも介護に疲れ果て、信州の家に引き取り介護した。同じ病院の若手医師が往診してくれたが、気管切開やチューブでの栄養補給は不要な旨を伝えておいた。
この言明がなければ、すなわち息子が医者でなかったら父はもっと長生きできたかもしれない。むき出しの事実はいつも笑い話と紙一重だ。バレンタイン命日を迎えるたびに、この身が生きのびるために為したことへのうしろめたさがつのる。

※作家・内科医の南木佳士さん(平成22年2月12日地元紙掲載)

 

「文章を書く」苦しみ

つぶやき
太陽は音をたてずに昇る。夜明けを久しぶりに体感した。それは想像以上の濃いオレンジ色を放っていた。冬の地上にあるすべてのものを、つめたい闇からすくい取り、力を与えてくれる。古代の人々が太陽を崇めたことにうなずける。
最近、人や動物を描いた洞窟壁画に妙に惹かれる。世紀を超えて今にも動き出しそうに見えるのだ。線だけの単純さが不思議な躍動感を生み出している。描くことの理想のかたちがここにあると思う。

学生時代、小さな子ども向け出版社のアルバイトに応募し、試験を受けたことがある。「三角定規の使い方を、子どもに分かるように400字以内で書きなさい」。こんな問題だったと思う。20代なんて若者は若者で群れたがり、子どもと触れる機会などめったにないのだ。何と書き始めていいのやら。それでもどうにかマス目を埋めて、雑居ビルの一室でひとり、次の難問を待っていた。
やがてドアが開き、編集者らしきロマンスグレーの人物が現れた。まるで教科書から抜け出た川端康成だ。禽獣のような目の奥に、強い光が揺らいでいる。カワバタ氏は、私を一瞥すると、深くため息をついた。「キミねぇ」「はい」「文章を書く、ということは、だよ」「はぁ」「書くということはだ。これはもう…苦しくて苦しくて、ねぇ」「ハァ」「それこそ血ヘドを吐くような苦しみだよ。キミ、わかる?」
そう言うなり、カワバタ氏はかたく目をつぶり、天井を見上げたまま、コトリとも動かなくなってしまった。合否は言うに及ばず。カワバタ氏は見透かしていたのだ。お気楽に人生を過ごし、「自分のこと以外なぁんにも考えていません」と顔に書いてある若者の文章の味気なさを。

自慢にもならないが、私は8歳から日記を書き始めた。愚にもつかないつぶやきレベルであったが、一行でもたった一言でも、とにかく書いていた。それは顔を洗うことと同じように何の苦労もいらなかった。笑っちゃうことに、「鍵つき日記帳」(?)などという、もはや化石に近いモノに書いていた時期もあった。インターネットのブログやツイッター(つぶやき)のように、人に読ませるための日記が世の中に登場するなんて、想像もつかなかった頃の話だ。
この血ヘドの一件で、書くことイコール苦行という図式が少しだけ私の中にインプットされた。
とにかく何かしら書いていたかったので、誰かに教えを請わなければまともな文章は書けないのだと思い、自宅でペン習字を習うようになり、シナリオ通信講座を2年ほど受けてみた。戦慄の小説「リング」の作者鈴木光司氏や、横綱審議委員だった内館牧子氏らが学んだシナリオ学校だ。「ハンカチ」や「別れ」など、毎週出されるテーマで、20枚のシナリオをひたすら書いては添削を受けるのである。生まれて始めて書いたシナリオは、それなりに誉められたが、2作目以降はボロボロに酷評され、オボロゲながらわかったのだ。血も涙も流さなければやはり文章は書けない。
何を通して生き方を学ぶのかは人それぞれで、例えば走ることや、日々の仕事をこなす中で見つける場合もあると思う。私はたまたま文章を書くことで、人の痛みや世の中の動き、言葉そのものに敏感になろうとした。
「まったくわかっていない」と言われそうだが、人とのつながりが広がったのは確かだ。
今でも雑居ビルの一室では、ロマンスグレーのカワバタ氏が虚空をにらんでいるような気がする。「書く苦しみは生きる苦しみだね。生きていくことの意味をもう一度見つめ直しなさい」とつぶやきながら。その部屋にはかすかな朝日が射し込み、やわらかなオレンジ色に包まれている。
二本松市の木戸多美子さん(平成22年2月12日地元紙掲載)

 

母の後ろ姿

50年以上経った今も、忘れられない母の後ろ姿、それは、私が修道院に入って数ヶ月後、初めての面会が応接間で許された後、1人で門を出て帰っていった時の母の後ろ姿です。

30歳で修道院に入った時、母はすでに70代の半ばで、1人で出掛けると、時に方角を間違えることもあって、外出には私がいつも付き添っていました。その母を残しての入会、付き添いもなく、1人で会いに来てくれた母の手には、柄の長い空色のパラソルがしっかりと握られ、それをコツン、コツンと突きながら門を出てゆく母の後ろ姿に、見送る私は涙を抑えることができませんでした。
 
走っていって、パラソルの代わりに手を引いてやりたくても、それが許されない悲しさ、それをかみしめている私に、母は一度も振りかえらずに帰ってゆきました。その後ろ姿には、70年余りの間、母が耐え忍んだに違いない数多くの苦労が刻まれているようで、母の背は、以前よりいっそう丸く、小さくなっていたように見えました。
 
修道院に入るまでの7年間、家の経済を助けるために私は働いていました。毎月の給料を、封も切らずに渡すと、母は押し頂いてから、まず仏壇に供えるのが常でした。その後ろ姿には、歳を取ってから、迷ったあげくの果てに産んだ娘への複雑な思いがにじんでいるようでした。
 
そんなこともあって、働いた末、修道院に入りたいと申し出た私に、母は「なぜ、結婚しないのかね」と言いながらも、あえて反対はしませんでした。
 
入会前の夜だったと思います。風呂場で私の背中を流してくれながら、「結婚だけが女の幸せとは限らない」と呟いた母の言葉が、30年見馴れた母の後ろ姿を集約していたのかも知れません。

※シスター渡辺 和子さん(平成26年5月14日「カトリック教会がお送りする心のともしび」より)

 

 

動物愛にあふれた情熱の人

世界的なフラメンコダンサーで本県出身の長嶺ヤス子。私は彼女を「やっこ」と呼び、家族も仲良くさせてもらっているが、個性的な人といって彼女の右に出る者はいない。本人には誠に悪いが、普段の生活では理解不能な人間。やっこは私より2歳ぐらい下、ほぼ同年代だが、よく分からない女、変わった女であるのは確かだ。
ところが彼女の舞台をひと目見てしまうと、いやが応でも彼女の世界に引きずり込まれる。「だまされた」「しまった」「やられた」。フラメンコという芸術に込められた情熱が爆発し、荒れ狂う。圧倒され、言葉を奪われる。年齢を感じさせない肉体と情念に、彼女の日々の努力を思う。「ああ、おれはこいつほど努力していないな」と。
やっこは何匹も猫を飼っていることで知られるが、それには理由があった。ある時、自分の車で猫をひいてしまい、以来、供養のため野良猫を拾ってきては飼うようになったのだという。
ある時、一緒の車で移動していると、別の車がひいた猫の死体が道路に横たわっていた。内臓が散らばって、無残な姿だ。「止めて」。やっこは突然車から降り、猫の死骸を手でかき集め始めた。見ている私たちはただ呆然としていた。そこまでする人間がいるのか―。
今から30年以上前、まだ都内に自宅があった時、わが家では犬を飼い、家族で可愛がっていた。ところが病気になってしまい、獣医師から「がん」を宣告された。ニューヨークのカーネギーホールの舞台出演で渡米する前々日、やっこが電話をくれた。「いいお医者さんがいるから紹介してあげる」。住所を聞き、妻が犬を連れて行った。獣医は「一晩お預かりして様子を見ましょう」と言う。妻はその言葉に従って帰路に就いたが、自宅に着くか着かないかのうちに急変の知らせが入った。
獣医はその間、「リンパ管を破って液が漏れている。液を抜けば呼吸が楽になるだろう」とリンパ液を抜く処置をしたという。ところが、処置後も具合が悪い。妻が帰って犬も寂しがったようだ。妻は慌てて獣医のところへUターンし、タクシーで連れ帰ったが、その車中で容体が急変。そのまま死んでしまった。
「明日のことがあるから来なくてもいい」と言うのに、やっこは青くなってすっ飛んできた。それから、わが家の居間はすごい状態になった。
「龍ちゃんが死んじゃった」と泣く中学生の娘たち。その隣でやっこも声を上げて泣きわめく。犬を助けられなかったという自責の念。子どもとやっこの泣き声と「お通夜だから」とやっこがたてた線香のにおい…。いつの間に、どうやって準備したのか、立派な犬用の棺おけも届いた。翌日、やっこは泣きはらした目でNYに旅立っていった。今も自宅に犬の写真を飾ってくれているという。
昨年末、家族でやっこの舞台に駆け付けた。日本舞踊をやっている娘が言う。「お父さん、私、ヤス子さんを見ていると涙が出てしまう」。そうか、お前もそれが分かるようになったのか。それがヤス子の舞台なんだ。ヤス子の世界なんだ。
日本画家、日展評議員の室井東志生さん(平成22年3月20日地元紙掲載)