朴念仁の戯言

弁膜症を経て

生きてほしかった

枕元の寄せ書き

百合ちゃんの頭蓋骨に骨肉腫が見つかったのは、1歳の時だった。
国立病院での放射線治療後は、小学5年生まで元気に過ごしていた。
鎌倉の大きな家でピアノのレッスンに励み、コンクールで表彰されたこともあった。

12歳の時、骨肉腫が再発した。
放射線治療と科学療法を繰り返したが、腫瘍は次第に大きくなって、百合ちゃんは右目を失明した。

15歳の春、退院して在宅医療に切り替えることになった。
最初に会った時、百合ちゃんはベッドでチャイコフスキーを聴いていた。
右耳は聞こえなくなっていたので、枕の左側にスピーカーを置いていた。

外見上は顔の右半分が少し腫れたくらいだが、口の中に穴が開き、食べた物が鼻から出てしまう。
一日数回痛みがあって、鎮痛麻薬を飲んでいた。

本人も両親も、残された時間は短いことを理解していたが、諦めていなかった。
月に1日、車で約2時間の国立病院に通い、化学療法を続けていた。
百合ちゃんはその度に衰弱していくようだった。

中3の新学期、百合ちゃんは2時間だけ授業に出た。
「お友達と会いたかったみたいです」
母親が言った。
「小学校から一緒の子が多くて、みんな仲良しなんですよ。でも、疲れてしまって」
友達からもらった寄せ書きを、まだ視力がある左側に置いて静かに眠っていた。

緩和ケアだけを提供する自分たちが歯がゆかった。
化学療法は効果がなく、他に有効な治療はなかった。
両親はさまざまな民間療法を試したが、どれも無効だった。

5月末、痙攣発作が起こった。
脳転移だった。
百合ちゃんは意識がはっきりしていて、急に泣き出すようになった。
「怖いんです」
彼女は言った。
「もう左目が見えないの」
父親に抱えられる姿を見るのは辛かった。

口の腫瘍が痛くて食事が取れなくなると、母親は、化学療法のため胸に埋め込んであったカテーテルから点滴で栄養を補給することを望んだ。
延命の可能性はあった。
誰も、百合ちゃん自身も、やめようとは言わなかった。
だが、百合ちゃんは急速に衰弱し、7月半ばに呼吸が止まった。
俺が到着した時、両親は百合ちゃんを膝に抱いて、大声で呼び掛けていた。

これまでの看取りとは違っていた。
島田看護師と俺は何もせず見守った。
長い時間が過ぎて父親が顔を上げた時、俺は静かに死亡時刻を告げた。
彼はうなずいたが、潤んだ眼は「それでも生きていてほしかった」と告げていた。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年6月23日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より)