朴念仁の戯言

弁膜症を経て

一瞬の出会い

昼休みの束の間、パソコンを通してイヤホンから流れるピアノのメロディーを子守唄に、椅子の背もたれに身を預けて瞼を閉じようとした時、視界に人影が入った。

顔を起こすと、白髪で短髪頭の、60過ぎの男の姿が目に入った。

イヤホンを耳から外し、すぐに立ち上がって声を掛けた。

「いらっしゃいませ」

「パンフレット、もらっていっていいですか」

「どうぞお持ちください」

うたた寝を遮られ、内心舌打ちしたい気分だったが、気を取り直して男に向き合った。

男は、手提げ袋を片手に半袖の白シャツ姿で観光客には見えなかった。

「こちらは最近こんな天気ですか」

「いえ、昨日までははっきりしない天気で雨が降ったり止んだりでした。今日明日は天気は良いようです」

「東京と同じですね」

この時点では手早く話を切り上げようと余計な話には付き合わない無言の意思表示を身体に表していたが、すぐにそれを解いた。

すると、自然に柔和な顔が浮かび始めたのが自分でも分かった。

「東京からお越しですか」

「東京のようなもんです…」、男はそう言って一瞬ためらった後、「知人から頼まれたんですけど、パンフレット置いていっていいですか」と縦長のパンフレットを取り出した。

それは横浜中華街のパンフレットだった。

「私、中華街の近くに住んでいるんです。副都心線東横線が繋がってここ最近は埼玉からのお客が増えましてね。埼玉は海なし県ですから中華街に来て食事をした後なんでしょうか、この辺から海が見えるところはどこですか、とよく訊かれるんです」

「ここも山国ですからやはり海には憧れますね」

「海あり県でもそうですか」

「県内でも海まで遠いですからね」

「そうですか、それなら中華街に来たらお勧めは大桟橋です。海に突き出ているので今日のような天気の時は空のスカイブルーと海の紺碧のコントラストが最高ですよ。房総半島も見えます」

「えっ、房総半島も。東京湾の形が見えるわけですね」

すると男は、胸元のポケットから切り取った紙切れを取り出して見せた。

「夕暮れの天気の良い日はこんなものも見えます」

紙切れは何かの雑誌の切り抜き写真で、そこには夕焼けに染まる高層ビルが立ち並び、左側にはお椀を逆さにしたような山が写っていた。

「えっ、これ、富士山ですか」

「ええ、富士山が見えるんです」

「横浜かあ、10数年行ってないなあ。ところで中華街でお勧めの店はありますか、ピンからキリまでありますよね」

「御三家と言われるここと、こことここ。値段は高いですが間違いないです。人を案内する時はここを紹介します。お粥料理だったらここ。あっちの人は普段でもお粥食べますからね。ドライフルーツだったらここ。棗(なつめ)が買えます、燕の巣も。燕の巣は1g600円くらい。10g以上じゃないと販売しないので6,000円からですね」

「彼ら華僑の人たちは日本に来て3年くらいで流暢に日本語を話しますよ。漢字圏なので覚えるのが早いですね。漢字で日本語の意味が大体分かるようです」

「ぼったくりの店もあるんでしょ」

「言いたくないですが、評判の悪い店もあります。そういう店は入れ替えが早い。比較的大通りにある店は大丈夫。ある店の姑娘(クーニャン)に中国人に悪人はいないのかと聞いたら、悪人はいないよと手を振って否定したので、嘘だろと言ったら、悪人はいないけど極悪人はいると言ってました。極悪人は顔で分かるそうです、中国人は。額に極悪人の文字でも書いてあるのが見えるんでしょうか」と男は笑った。

料理の鉄人陳健一の話とか興味深い話もあったが、午後の会議のため、途中で話を切り上げざるを得なく、束の間の20数分間は過ぎ去った。

会議場所へ車で移動している途中、今し方立ち話した男が大通りを歩いている後ろ姿が目に映った。

男は冒頭、ストレス発散目的でこの地を訪れたと言っていた。

自然の緑が見たいと。

60過ぎの、定年退職した男の胸中を占めるストレスが何ものかは知らない。

単に人と話をしたくてふらり電車に飛び乗ったのか。

 

一生に一度の出会い。

恐らくもう二度と会うことはないだろう。

そう思えたから男と向き合えた。

日常のさりげない一瞬の出会い。

これからも大事していきたい。

そんな想いで男の背を見送った。