朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人間は死んでもまた生き続ける

仕合わせ
人は、一人ではしあわせになれない。
お互いに仕え(つかえ)合い、支え合ったときにしあわせという状態が訪れる。
「幸せ」とは本来、「仕合わせ」と書く。

自分は善人だと思っている人は救われない
「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」
親鸞歎異抄(たんにしょう)の有名な一節だ。
善人は救われる、もちろん悪人もそうだ、と解釈されやすく、それなら欲望のまま悪事を働いてもいいじゃないか、と誤解されることも少なくない。
ここで言う「悪人」は、それを悪と自覚している人を言う。
自分を悪人だと自覚している者は、仏、あるいは神にすがるほかないと思うから必死に救われたいと願う。
自分を善人と思っている者は必死に願うところまでいかない。
だから善人は悪人(自覚している者)よりも劣るという。
親鸞は、自分のことを「極悪深重(ごくあくじんじゅう)」―この上なく悪い人間だと言っていた。
親鸞は、身体や言葉で悪事を為すようなことは無く、しかしながら他人が窺い知ることのない心の中では悪事を為していた、と、この自覚が自分自身を極悪深重と言わせたのだろう。
凡人にはこれほど客観的に自分に冷徹な眼を向けることはできない。
仏教には「十悪五逆(じゅうあくごぎゃく)」と言われる罪がある。
十悪とは、殺生、偸盗(ちゅうとう―盗み)、邪淫(じゃいん―みだらな異性関係)、妄語(もうご―噓、偽り)、綺語(きご―おべんちゃら)、悪口(あっく―人の悪口を言う)、両舌(りょうぜつ―二枚舌を使う)、貪欲(むさぼり)、瞋恚(しんに―怒り)、愚痴(愚かさ)の行為。
五逆とは、母を殺す、父を殺す、阿羅漢(聖者)を殺す、仏の身体を傷つける、僧伽(サンガ―教団)の和合を破壊する、の行為。
以上の行為を心の中で思っただけでも罪を犯したことになると仏教は教える。
親鸞の和賛(仏教を褒め称えた日本語の賛歌)には「毒蛇悪龍(どくじゃあくりゅう)の如くなり。悪性(あくしょう)さらにやめがたし」という言葉もある。
人間は毒蛇、悪龍のようだ、それを止めることができない、と。

この世に永遠不滅のものはない
平家物語の冒頭の句、「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)をあらわす。おごれる人も久しからず。ただ春の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとえ)に風の前の塵(ちり)に同じ」
世の中のすべてのものは一定ではなく、絶えず変化を続けている。一瞬たりとも同じ状態を保つことはできない。永遠不滅のものなど一つとしてなく、何もかもが変化の過程にある。
自然界は、衰え、滅び、そして生成と発展を繰り返し、人も禍福は糾(あざな)える縄の如し、喜び、悲しみ、苦しみ、喜び、そして生死をも繰り返し、魂の進化を遂げる。
諸行無常」の言葉は、仏法の根本を記した「雪山偈(せつせんげ)」にもある。
諸行無常、是生滅法(ぜしょうめっぽう)、消滅滅己(しょうめつめつち)、寂滅為楽(じゃくめついらく)。
「すべての存在は移り変わる。これがこの生滅する世界の法である。生滅へのとらわれを滅し尽して、寂滅をもって楽と為す」

情けは人のためならず
人に情けをかけて助けてやることは、結局はその人のためにならないからすべきでない、と誤用している人は多く、私もそう思っていた。
実の意味は、「情けをかけることは人を幸せにするだけでなく、巡り巡って自分にも良い報いがある」ということ。
利他がやがて自利になるという教えである。
但し、始めから自分の利益を考え、利他に走っては自己中心的な「我よし」であり、意味はない。
計算なしで自然に行ってこそ意味がある。

生きるとは、息すること
呼吸の大切さ。

「雑阿含経(ぞうあごんきょう)」にある「盲亀浮木(もうきふぼく)の譬え」という有名な話
お釈迦さまは、「人間としてこの世に生まれてくることは、きわめて稀なことである。有り難いとは、存在することが難しい、珍しく貴重なことである」と説いている。
生きていること自体が貴重で、得難いものを自分は得ているという感動が「ありがたや」という言葉になり、感謝の気持ちを伝える言葉として人々の間に広がっていったのが「ありがとう」なのである。
本願寺法主親鸞聖人直系二十五世の大谷暢順さん著「人間は死んでもまた生き続ける」より引用