朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不思議な出来事

彼岸に、昨年亡くなった義姉を思い出します。
生前、姉と二人で度々実家に遊びに行きました。
穏やかな人で、「よく来たない」と迎えてくれ、3人で楽しくお茶を飲みました。
そんな義姉の世話になって旅立った父母は本当に幸せだったと思います。

一時間ほど話し「また来るよ」と言うと、「いつでも来らし」と温かい言葉に送られ、姉と「今度はいつ行く?」と楽しみにしていたことを懐かしく思い起こします。

夜、私の部屋に、パジャマ姿の女性が入ってきて、話をせずに出て行ったことがあります。
隣の部屋で寝ている孫娘に「ばあちゃんの部屋に来て、何で黙って出たの?」と訊くと、「行ってないよ。寝ぼけたの?」と言われました。

眠れないまま迎えた朝。
甥から「ばあちゃんが亡くなった」と電話がありました。
義姉の魂が私にお別れに来てくれたのだと思いました。
不思議な出来事でした。
楽しい時間をありがとう。
仏前で声なき会話を交わしています。

※石川町の瀬谷マツノさん76歳(平成31年3月19日地元紙掲載)

 

春彼岸に思う

この世は、肉を纏った100年そこらの小旅行。
人として喜怒哀楽、四苦八苦を味わい、魂を磨き、やがては肉を脱ぎ捨て、異界へ還る。
歳を重ね、残された年数を数える。
平均寿命からすれば折り返して10年、肉体の死は少しづつ現実味を帯び出した。
時間という概念、その受け止め方は人それぞれ。
20代の一日と60代のそれは違う。
20代は同じことの繰り返しと生命の長さに退屈し、60代は同じことの繰り返しの中に感謝と、肉体の衰えに対する怯え、それに経済的備えの乏しさが加わり、老後の不安を募らせてゆく。
肉体の消滅はあっても生命に終わりはないと知りつつも、老後の不安は未だ拭い切れない。

この世は「板子一枚下は地獄」。
自然災害、不治の病、事件、事故・・・他人事のように見ているこれら災難がいつ何時降りかかるやも知れぬ。

方丈記の冒頭、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」が頭をよぎる。
そして、「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」と続く。

人(住居)は、さもうたかた(水の泡)のようにして、いつか儚く消える。
人はどこから来て、どこへ去るのだろう。

仏壇の前に坐れば、遺影の変わらぬ笑みが今日も私を見詰める。

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
今できうることは、日一日に感謝し、その日限りの命として生きること。
嘆くまい、怒るまい、怖気づくまい、悲しむまいと。
世界平和と身内の息災を祈りながら。

 

泥中の蓮 -吉原奇縁ー ⑯

久めは吉原の辰稲弁楼の瀬川花魁、私は堀江遊郭山海楼の舞妓妻吉となって、8年ぶりに逢ったところは、仲の町の辰稲弁楼の揚屋でありました。

このめぐり逢いの後、私はたびたびこの瀬川花魁のもとへ通いました。
ついには楼主の知るところとなり、ある日、二人は内所へ呼ばれて主人からたずねられました。
二人は幼な友だちであり、他人の姉妹であると申しました。
侠気(おとこぎ)な辰稲弁の主人は私が行きましても、金銭を使わぬように姉妹として会わしてくれました。
のみならず吉原の人たちにも自分が先に立って廓内の青楼や芸者たちにも引き合わせ、善孝ともども好感をもって、私が出ています各所の寄席へ縫取りの緞子(どんす)の後ろ幕を贈ってくれました。

瀬川花魁はいやしいつとめこそしておりましたが、彼女の部屋の床脇には尺ほどの仏像が安置してありました。
毎朝起きますとまず身を浄めて、静かに香をたき黙禱(もくとう)をしています。
大きく結い上げた立兵庫の髪に金の糸をたらし、紫かの子の襟を、白いうなじにのぞかせて、後ろ向きに合掌して坐っています姿はじつに麗しく、何とも言えぬ清らかさがありました。
普賢菩薩の化身江口の君もかようなものかと尊い感に打たれました。

仏道のことは何もわきまえのない私も、ただ何となく仏様の慈悲の世界を慕うようになっておりましたこのころ、この朝の気持がたまらなく懐かしかったのです。
しんみりと安らかな気分、薫(くん)じられた五種香の立ちのぼるほのかな匂い、その静かな中に私はゆったりと心が和らぐのでありました。

彼女はある朝言いました。
「このお厨子(ずし)の中の仏像は十一面観世音です。この観音様は、代々家に伝わった物で、ご先祖が確か、奥方様のお輿入れのとき、お里からお持ち遊ばれたのを奥方様から賜った物で大切にしたのでした。家が困ったときよほど手放そうかと思いましたが、いよいよお別れのときだと合掌していますと、何かしら心の道が開けて、教えていただくのです。私はついにここまでお連れ申し上げてまいりました。誠にもったいないことと思います。しかし、私はこの観音様におすがりして、多くのまちがった男の方に、日本の女性の真の心をこめて、朝の別れの言葉を言ってまいりました。二度と道に迷わぬよう、かようなところへは深入りせぬようにといって帰すのです。親兄弟の意見は耳へ入らずとも、こうした廓の女の言うことは必ず聞き入れてくれました。女郎と言えば人は皆いやしいもののように言いますが、一口にそうとも限りません。昔から吉原ばかりでなく、遊女には優れた人がありました。私は義理ある父にここへ売られた、と思えば悲しくもなりますが、この身このままを菩薩の行としてまじめにつとめあげ、亡き父母や家中の人々の冥福を祈りたいと思うております。よねちゃんも仏心を持って人のために尽くしてください。仏様は慈母のごとく、ことに観音様は何事もわが身に変えてお救いくださいます。どんな生活でも決して不幸ではありません。幸、不幸はみんな自分の心の底にあるのです。二人は菩薩行をしましょうね。ああ、ちょっと待って……」
と言いながら、かたわらの文机(ふづくえ)に向かい、さらさらと短冊に書きました。

ありがたやきょうも菩薩の声ありて
さとし給いきおのがつとめを

瀬川花魁は、三つに折りたたんだ短冊を私のふところへそっと入れてくれました。
泥中の蓮とはこの瀬川花魁のことを言うのでしょう。
明治40年、春の暮れのことでありました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)

 

 

泥中の蓮 -吉原奇縁ー ⑮

遭難(堀江遊郭6人斬り)の翌年のことでした。
年の暮れに大阪を出立(しゅったつ)しまして、私たちは上京をいたしました。
新橋駅へ着きますと、多勢の出迎えの人々の中に、有名な幇間(ほうかん)桜川善孝が弟子たちや、吉原の芸妓連を案内して私を待っていてくれました。

駅は美しい人たちで時ならぬにぎわいを呈しました。
私を中にこの人たちを乗せた人力車は新橋から京橋、日本橋をへて、神田の万世橋さがみやという旅館に落ち着きました。

私はこの善孝という人の紹介で、吉原はもとより、そのころの名優たちにもちかくしてもらいました。
浅草方面の侠客で有名な人が、私を連れて各所へ挨拶に廻ってくれたりしました。

いろいろなこともありましたが、万世橋で待ちうけてくれた桜川善孝の案内で、吉原仲の町の青楼(おちやや)で不意に経験した一つの出来事をお話ししましょう。

善孝の弟子はもとより落語家連の慰労のつもりで、ある夜仲の町の辰稲弁へくり込むことになりました。
楽屋の連中は寄席の引けるのを待ちかねて、威勢よく人力車は吉原へ向かいました。
お大尽(だいじん)は、18歳の私です。
やがて大広間の宴もはてて、いよいよお大尽は敵妓(あいかた)の花魁(おいらん)の部屋へお引けということになりました。

私の敵妓は御職(おしょく)(一番の上位)の瀬川という花魁でしたが、私をどうあつかうかと一座は言わず語らず興味を持っていました。

案内された部屋は6畳と4畳半の二間で、お定まりの長火鉢の前には友禅の揃いの座蒲団が二つ敷かれてありました。
鉄瓶の湯はしんしんと音を立てています。
私は一人黙然(もくねん)としながら、お芝居でみる白石噺(ばなし)の揚屋(あげや)を思い出しました。
しばらくするとハタハタと廊下に重ね草履の音がします。
花魁だ、私は思わず坐り直しました。
花魁は来ました。
私は恥ずかしいのでうつむいていました。
彼女は火鉢の向こうに、裲襠(うちかけ)の裾(すそ)もあざやかにさばいて坐りました。

私は少し落ち着くと、そっと花魁の顔を見上げました。
面長な美しい、そして豊国が好んで描いた錦絵を思わせる顔でありました。
彼女の表情に何か一種の動きがありました。
眸(ひとみ)がじっとすわっています。
花魁の口が稲妻のような速さで浴びせかけました。
「あんた、よねちゃん——」
私はぎょっとして彼女の顔を見ました。
「よねちゃんだ、よねちゃんだ、二葉のよねちゃん——」
花魁の顔がくずれ、姿勢がくずれて私を抱きました。
その顔から瞬間私は記憶をしっかりつかまえました。
私は再び驚きの眼を見はりました。
「久め姉ちゃん」
「おお、よねちゃん」
「久め姉ちゃん」

私と彼女はひしと抱きあったまま、からだをふるわせて泣きました。
彼女を抱く手のない私は身もだえしてそれを悲しく思いました。

私にはこの久め姉ちゃんをどうして忘れられるものでしょうか。
この久めという人は、私の七つ、八つのころ、道頓堀の家に身を寄せていました。
彼女は不幸な娘でありました。
女姉妹のない私はこの久めとは大の仲よしで、勝気な私にひきかえて、久めは素直ないい性格の持ち主でした。
彼女の父は淀の家中(かちゅう)でありましたが、御維新後思わしい仕事もなく、ついには父は貧の中に淋しく死んでいきました。
母は姉妹と苦労をしていましたが、久めさんは私の家へ、姉はどこかの家に女中奉公に行きました。
母は二度の夫を持ちましたのが、彼女がここへ来なければならぬきっかけになったそうです。
久めは私の家におりましたが、女髪結になるとて弟子入りをして修行中、姉がリウマチで病み、ついに足の不自由な身となりました。
母も長い苦労で姉妹に心を残して世を去りました。
義理の父はこの娘たちをいつも食いものにしていましたが、姉は不具の身のどうにもならず、ついにこの久めを吉原仲の町の辰稲弁へ年季のつとめに売ってしまいました。
私たち二人は、別れてからの長物語に目を泣きはらし、一夜を寝ずに明かしました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)

 

「人間性」反故にしたのは

特別寄稿 相模原事件一年後の視座

一年間とくと考えさせられた。
いくつかの原稿を書き、本を読みかえし、対話し、長いインタビューも受けた。
おぼろげながらわかってきたこと、まだ得心がいかないこと、いまさらにたまげたこと・・・が多々ある。
誰も内心うろたえていた。
同時に、狼狽を取り繕おうとしていた。
事件の血しぶきにかすむ深奥の風景を、ほんとうのところは、誰しも見たがってはいないようにも思われた。
血しぶきの向こうに、ひょっとしたら、自分か、おのれに親しいものが佇んでいるとでもいうように、正視を避けてきた節もある。

事件と「楢山節考
あの出来事に皆が慌てたのは、流された血の多さからだけではない。
いわば、「われわれが『人間性』と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ」たからなのである。
三島由紀夫のこの言葉(1970年)は、むろん、重度障がい者殺傷事件について語られたのではない。
深沢七郎の名作「楢山節考(ならやまぶしこう)」(1956年)をはじめて読んだときの衝撃を綴ったものであった。
しかし、不思議にも、この言葉ほど一年前の惨劇とそれを引き起こした青年への驚きをよく語っているものはない。
常日頃、さほどの注意も払わずに「人間性」と呼んでいる暗黙の「合意と約束」は、この度の事件で激しく揺らいでよいはずのものであった。
だが、「人間性」という、裏づけのない「合意と約束」の内実が、事件後マスメディアなどで厳しく掘り下げられたようには見えない。
言うなれば、あってはならないこと、一般には起きるはずのないことが、たまたま起きてしまった——と安易に処理されてしまった観が否めないのだ。
つまりは、重度障がい者のみを選別的に抹殺しようとした、世界史的に特筆大書され、解析されなければならない事件が、マスコミ的日常の浅瀬に回収されてしまっただけではないのか。

臓器の感覚
楢山節考」に出合ったときの深刻なショックを三島は腹蔵なく、かつ衒(てら)わず、正確に記している。
「ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ」た、と。
障がい者殺りくと「臓器の感覚」は、なぜかぴたりと重なる。
「棄老」の習俗を背景とする短編小説と重度障がい者殺傷事件は、伝達の困難な新旧の妖しい影が重なり、交差する、まるで影絵のような世界ではある。
それにはニッポンという共同体が、今に至る内側に持ち続けながら、見て見ぬふりをして、明示するのを避けてきた、うつつのなかの″異界″でもあるからだ。

山里の貧しい村落の掟に従って、70になろうとする母親を息子がおぶって雪ふる楢山へ捨てにいく物語は、〈親子の情愛と共同体の因習の葛藤〉といった、「かつてはあったが、今はない悲劇」としてまとめられがちだった。
しかしながら、この因習は、寒村における余儀ない「口減らし」の集団的合意と約束に沿うたものである。
すなわち、無情な「棄老」は、人間性ヒューマニズムの美辞麗句に隠された「経済的合理性」の、今でも形を変えて反復されているだろう、無言の実践でもあったのだ。

物語では山中に横たわるたくさんの白骨遺体や、70歳の父親を今まさに谷底に突き落としている隣家の男の姿などが淡々と描かれる。
このようなシーンを突きつけられ、三島由紀夫は「美と秩序へ根本的な欲求をあざ笑はれ」ている・・・という不快感を吐露しているのだが、悪夢そのものの風景が歴史の暗部に「事実」として沈んでいることを否定しはしない。
棄老伝説は「大和物語」「今昔物語集」にもあり、さらには乳児の「間びき」、障がい者殺し、「座敷牢」への閉じこめなどが、ニッポン近代の「美と秩序」と裏腹な、見るのも見せるのも憚(はばか)られるとされてきたダークサイドにいくつも伏在しつづけるからだ。

社会の暗影
相模原の障がい者殺傷事件は、こうした歴史の延長線上にありながら、あまりにも唐突かつあからさまに差しこんできた非人間的暗影であるかに見える。
だが、暗影をいとど濃く育ててきたのは、現在のこの社会ほかならない。
あの青年は「3年間の施設での勤務の中で、重度の障がい者が不幸のもとだと確信をもった」という。
不幸のもとを減らすために、重度障がい者を″駆除″してやったのであり、これは社会貢献だ・・・とでも言いたげである。
これに対し、マスコミは「遺族への謝罪はなく、今も歪(ゆが)んだ考えを持ち続け、みずからを正当化する主張をしている」と、被告の青年を常套句(じょうとうく)で非難する。
言いかえるならば、被告の青年は殺りくの「正義」を疑わず、メディアは論証抜きでその正義のゆがみを力なく弾劾している。
一年間これを見続け、私が思い浮かべたのは、新約聖書の「正しい者はいない。一人もいない」というパウロの言葉だった。
「皆迷い、だれもかれも役に立たないものとなった」が、偽(いつわ)ざる実感である。
もう一度、われわれが「人間性」と呼んできた「合意と約束」を反故(ほご)にしたのは誰か、自問しなければならない。

トランプ米大統領の選挙演説や「イスラム国」(IS)のニュースが、青年を犯行に駆り立てたという趣旨の情報もある。
障がい者殺傷事件は、日本版の選別的テロだったのであり、これから生起しようとしているさらに大きな出来事の、脈絡のつかない徴(しるし)のようにも感じられてならない。
テレビ局関係者がボヤいている。
「あの事件関連の番組では視聴率がとれない」
それぞれの不可視の異界で、今も不気味な風が吹いている。

※作家の辺見庸さん(平成29年8月5日某紙掲載)
※注:原文一部に漢字書き換えあり

 

血より濃きもの -すてられし子にー ⑭

定められた時間にまいりますと玄関で待たされること一時間あまり、やがて大きな座敷へ通されました。
博士は火桶に手をかざしながら私をギョロリと見て、
「あんたを呼んだのは別(ほか)でもない、芳男に子どもがありますか?」

私はたぶんこんなことだろうと思い覚悟をしてきましたが、多くの人のいる前で、あまりにも横柄な言い方、その場の空気の冷たさに一瞬ハッとしましたが、
「ハイ、子どもがあります。女の子でございます」
「なに、女の子がある。やはり事実であったのか」
博士は唇をかんで私の顔をみつめました。
「子どものあることをいつわって結婚させたのですか? そんなことがいつまでもわからぬと思うているんですか。子どもの籍は法の網をくぐりぬけても、良心の網はくぐれないはずだ。なんという似非(えせ)宗教家だ、なんと返事ができる」
「ハイ、私はこの縁談は最初から反対でありました。それは芳男に聞いてくださればわかります。女児のありますことをご承知で、こちらとの縁談をすすめることを仲人さんへ申し上げたはずです。仲人さんにお聞きいただけばよくおわかりくださいます」
「この似非尼が、どのようにこざかしい言いのがれをしても、今さらとり返しがつくと思うてるんですか!」
「では、どういたしましたらよろしいですか」
「責任をとれ」
「責任と申されましても、私のようなものに、どのような責任をとればよいのでしょう?」
「とにかく責任をとれ、今日は帰れ」
「ご立派な人格者のあなたに、これだけのお叱りを受けました私はしあわせでございます。かたじけなく今日のお叱りをいただいて帰らせていただきます。また似非宗教家とまでいってくださいましたご教訓をありがたく御礼申し上げます」

きら星のように並ぶ法学博士たちの前を引きさがり、ふけた夜道をわが家へ帰りました。
今日まで数々の辱(はずかし)めを受けてきた私でありますが、月の光にみちびかれて帰る私の心は、スガスガしく、モヤモヤしていた胸の中が浄められる思いがいたしました。

芳男はすっかりしょげてしまい、私の顔を見ることができずうなだれていました。
「当然、来るべき時が来たのです。早く来ればそれだけ罪が早く軽くなるだけです。私はかえって良かったと思います。あれだけの侮辱を受け、あれほどののしられたら満足しました。すべては自分の不徳なのですから。今夜はもう家でお休み」

私は一カ月あまりの胸のかたまりが、法学博士に受けた言葉のメスに取りさられて、浄水で洗い落とされた気持で朝までぐっすり眠りました。

さて、問題は子どもの始末です。
博士と縁家先はどうしても子どもを他家へやり、親子の縁を切ってしまえと、やかましく申してまいります。
しかし私はどこまでも、この子を身にかえても育ててゆくつもりでありました。と申しますのは、——この子が成人して血を分けた親がどこの人であったかわからぬとしたら、どんなに悲しむことでしょう。これが第一の問題です。
第二は、父が若気(わかげ)のあやまりで、あとさきの分別もなく他家へやってしまい、縁が切れて生死も分からぬと聞いたら、必ず後悔するだろうということ。
第三は、この子を捨てた夫の妻として、やがて自分にも子どもが生まれ母となったとき、親としてのやさしい心が蘇ったら、きっと、何か胸の中にわだかまりが生じることと思います。
私はこの三つのことを、子どもや夫婦のためにいろいろ考えまして、私の手元で養育すれば、いつでも親の元へ渡してやることでができる。この子のえにしのためにも、私は大切に育ててゆくことにしたのです。

もとより芳男から一銭の養育費も受けず、清らかなみどり子の心を育てたかったのです。
白隠さんのまねごとではありませんが、世間から笑われ、他人からそしられても、私はただ黙ってこの子を背なに結びつけてもらい、近所の母親をたずねては貰い乳をしながら、育てたのです。

そのかみの白隠禅師をおもうなり
みどり子せなに乳もらうとて

やがて、時も過ぎ、私を昔からよく理解してくれている旧友から預からせてほしいとの申し出があり、私は喜んで、学校に通うようになった娘を、その旧い友の元へ渡しました。
今では、その娘も成人し、他家へ嫁ぎ、子どもに恵まれた家庭の母として人生を送っているそうです。
私の弟子からも、その娘の近況を折にふれて耳にしますが、会っては芳男の妻にすまないと心に言い聞かせ、その娘のしあわせを蔭ながら祈っています。

永い人生のあいだには、どうにもならぬ思わぬことにめぐり逢うものです。
しかし起こったことをとやかく問題にしても、またどうすることもできぬのが人間の宿業とでも言えましょう。
私はどんな逆縁も素直に受け入れ、そのことがらを通して、どう歩ませていただくかということに人生の大切な生き方があるのではないかと思うのでございます。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より

 

血より濃きもの ーすてられし子にー ⑬

チッチュク チッチュク チッチュク チウ
スズメが鳴いてよる
何というて 鳴いてよる
チッチュク チッチュク 鳴いてよる

生まれて一年たらずの子がこんな他愛ない片言をいいながら、私の背なで喜ぶのです。
この子は私に何の血のつながりもない子でありますが、私が背負って育てねばならぬ不遇な生まれの子なのであります。
世間からは笑われ、他人からはそしられても、双手のない私はしょいひもで結びつけてもらい、ねんねこを着て大切に養育しなければならない子なのです。

「この子は、誰のお子はんだすか、まさか先生の子たちとも思えまへんがな」
「あの子は順教さんの子どもやそうな、イイヤ、順教さんの孫さんだと」

さまざまにうわさをされますが、私は人々の眼を背に受けながら、黙って母ならぬ親としてその子を育てたのであります。

しなえたる尼がちぶさにだまされて
なきねいりするいとしみどり子

そのみどり子のえにしというのは——。
あるところの講演をおえて宿所に帰って来ますと、一人の青年が私に面会をもとめておりました。
この青年は両親がなく、しかも母親の顔さえ知らず、父親は名のある宗門の僧でありましたが、少年のとき父に死に別れ、親族の世話になっていましたが、大学に通っているうちにその伯父も亡くなり、母なる人の面影をしのんでは淋しく暮らしているというのです。
「お母さんと呼ぶ人がほしい」と明け暮れ念じていたのです。
その青年を指導している教師からも、私を心の「母」と呼ばせてやってほしいとたのまれ、哀れに思いまして、その後「母さん」と呼ばせて、いく歳月が流れました。
そのうち、ある日のこと、この青年が、私のあずかっておりました父の名も母の名も知らぬ淋しい娘と、同じような境遇から心をよせあい、子どもができたというのです。
私は若い人たちの無軌道をと、叱っても、できたことはしかたなく、二人に結婚をするように計らいましたが、青年は親族の手前もあって家庭の妻にできぬ人だと詫びるのです。
しかたなく生まれた子は私が引きとり、別れることにしました。

生まれた子は女の子で、実に可愛い子でした。
しかし育てるにしても困ったことはこの子の戸籍のことです。
母のない子にするのは後々のために良くありませんから、両親そろった恥ずかしくない生まれにしてやりたいと考えぬいた末、何かと私の面倒を見てくれた旧い友人の子にしていただこうと、別れて20年近くになる人にお願いにまいったのです。

「突然ですが、子どもの親になっていただきたいのですけれど……」
あまりに意外な申し出に、しばらく言葉もありませんでしたが、
「それは、誰の子?」
「私の子です」
「あんたの子ども、——それで子どもの父親は」
「子どもの父親、その父親は″あなた″なんです」
友人はあきれた顔つきで当惑していましたが、やがて、
「あんたのことだ、何かまた引き受けたのだろう。相かわらずだなあ。俺は承知するが、家内が何というか。よい返事をすると思うが、あとから返事の手紙をあげよう」

翌(あく)る朝、速達のハガキが配達されました。
貪るように読みますと、「家内が、あんたのことなら、どんなことでもさせてもらう」といって、今度の子の籍のことも喜ん引き受けてくれたとありました。
なんとう、ありがたいことでしょう。
子どもの籍はとにかくとして、その尊い心持を勿体なく思ったことでした。

ところが、その女児の父親に嫁を世話しようという人がありました。
その嫁になる女性は、ある著名な法学博士の姪にあたるとかで、縁組は養子にしてほしいとのことでした。
私は子の良き母となってくれる女性としてならうれしいことですが、幼い子を捨てて他家へ養子にいくような不心得は反対だ、と申しました。
その仲人となる人は、女の子のあることを承知の上なのですか、とたずねますと、「よく知っています。その子はどこかへ貰ってもらうようようにするから」と申しますので、私は、なおさらとんでもない不心得だと叱りつけて、この縁組には耳を傾けませんでした。
しかし縁談は私の知らぬ間にずんずんとすすみ、いよいよ結婚式をあげることになっていたのです。

挙式の前日、彼は私にいとまごいやら、女児のことなどを頼みにまいりました。
「お母さん、一生のお願いです。明日の結婚の式場へ出席していただけませんか」と申します。(彼の名を仮に「芳男」としておきましょう)
「芳男さん、あんた、それ本気で私に言っているの、私は出席しません」
「ハイ、しかし……僕には親も何もないのです。お母さんよりほかにないのです。僕は一人で、肩身のせまい思いで式をあげねばなりません」
「それはあなたの勝手気ままからできたことです。子どもにだってすまないでしょう」
「女の子は他家へやります」
「女の子を他の家へやる、今一度言ってごらんなさい。なんということです。そんなことだから子どもを片親にしたのです。そんな心で一人前のものになれると思っているのですか、なぜ子どもの良き母となる人と、結婚をしないのですか、この不心得者が」
私は子を背におんぶして思わず彼の胸をつきました。
彼は倒れながら起きようともせず、
「お母さん、すみません。ゆるしてください。そしてお母さんの気のすむまで僕を足で蹴ってください。お母さんの手が痛みます。僕への制裁なら足にかけてください。お母さん、僕の心得ちがいをゆるしてください。そしていつまでもお母さんとだけは呼ばせてください」
芳男は私の前にひれ伏して泣くのです。
ややしばらくして立ち上がると、
「僕、明日の結婚式を断ってきます」と、出て行こうとします。
「バカもいいかげんにしなさい。今さら断ってどうします? 先方の娘さんに傷をつけるようなことをしたらどうします。どこまで分別のないわからずやなのです。今となってはどうしようもありません。すべて仏様へお詫びをして成行きにまかせましょう」と申しまして、明日の挙式へ出席することにしたのです。
式もめでたくすみました。
一カ月もたちましたある日、嫁の叔父の法学博士から私にすぐ来るようにとの使いがまいりました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より