朴念仁の戯言

弁膜症を経て

shape of my Heart

He deals the cards as a meditation
And those he plays never suspect
He doesn't play for the money he wins
He doesn't play for the respect
奴は心沈めてカードを切る
無心に
金のためじゃない
称賛がほしくてやるんじゃない

He deals the cards to find the answer
The sacred geometry of chance
The hidden law of probable outcome
The numbers lead a dance
答えを見つけるためにカードを切るんだ
そこにはチャンスという神がかり的な定理(ことわり)と
そして、適中を予感させる秘められた法則がある
カードが踊るようにそれへと導く

I know that the spades are the swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart
俺はスペードが剣を象(かたど)っていることも
クラブが戦いの武器を意味することも
ダイヤがこの不可思議なゲームの金を示していることも
そんなことはとうに知っている
だがそこに、俺の心を表すものはない

He may play the jack of diamonds
He may lay the queen of spades
He may conceal a king in his hand
While the memory of it fades
奴はダイヤのジャックを切ろうとしているかもな
今脇に置いたのはスペードのクイーンか
奴の手にあるキングは隠れっちまうかもな
カードの痕跡が消えゆく間に

I know that the spades are the swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
俺はスペードが剣を象(かたど)っていることも
クラブが戦いの武器を意味することも知っている

I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart
That's not the shape, the shape of my heart
ダイヤがこの不可思議なゲームの金を示していることも
だがそこに、俺の心を表すものはない
そこにはないんだ、俺の心は

And if I told you that I loved you
You'd maybe think there's something wrong
I'm not a man of too many faces
The mask I wear is one
お前を愛してるって言ったら
お前は、俺の頭がどうかしたかって思うだろうな
俺にそんな芸当ができるもんか
一つの仮面、俺にはそれしかない

Those who speak know nothing
And find out to their cost
Like those who curse their luck in too many places
And those who fear are lost
ヘラヘラしゃべる奴は何も知っちゃいない
それが後になって分かるだろうよ、高くつくってことが
その辺にゴロゴロいる、自分の不運を嘆くばかりの
喪失を恐れるだけの奴らも

I know that the spades are the swords of a soldier
I know that the clubs are weapons of war
I know that diamonds mean money for this art
But that's not the shape of my heart
That's not the shape of my heart
俺はスペードが剣を象(かたど)っていることも
クラブが戦いの武器を意味することも
ダイヤがこの不可思議なゲームの金を示していることも
そんなことはとうに知っている
だがそこに、俺の心を表すものはない
そこに俺の心を表すものはない

(和訳:朴念仁)

スティングのshape of my Heart(シェイプオブマイハート)。
映画「レオン」のエンディングに流れた。
スティングの曲の「静」が、映画の激しい「動」を客観視させ、クライマックスへ淡々と進む。
職場での昼休み、連日のように子守唄代わりに聴いていたら俄かに歌詞が知りたくなった。
ネットで検索していろいろ見たが、私の心象にしっくりこない。
それで初めて和訳を試みた。
ほとんどが盗作に近いが、結構好きなように表現を変えた。
Shapeは形を意味するが、Heart(心)に形はない。
心の形とは、「見えない我が道」を示すように思える。
誰もがその道を探し求め、最期まで歩き続ける…。
殺し屋のレオンは突然に、そしてようやくにしてその道を見つけた。
マチルダの依頼を受け、マチルダを守り抜くことに。
スティングの曲はしばらくは耳から離れそうもない。

 

 

微光のなかの宇宙(中公文庫)

作家の司馬遼太郎さんは小学校低学年のころ、化け物の絵を描きたい衝動に駆られ、実際に空想して描いたという。
上級生のときには図画に最低の点を付ける先生に紙風船を模写するように言われたのがいやで、キノコのネズミタケを描いて反抗したこともある。なぜか。すきやきに入っていたのを食べたら苦(にが)くて吐きだし、名前も形も嫌いだったからだ。
中学では西洋の老人の顔を描くのに凝った。この衝動は習癖になり、作家の道に進んでからも長電話のさなか、メモ用紙に無意識に描いた。話が済めば終了の儀式のように丸めてごみ箱に捨てる。
習癖に慰められた経験も。勤務先で気持ちの通じがたい上司と不愉快な会話をしていたとき、不意に相手がバッタに見えた。何かの拍子でビル街を歩いてきて自分の前の机を隔てて座っていると。これでいい、と思ったそうだ。
(平成21年2月5日地元紙「編集日記」より抜粋)

古墳思えば病は小さい

政治学者 草野 厚さん

日本の政治や外交に鋭い論陣を張る政治学者の草野厚さん(69)。慶応大教授を退職後、これまでの研究分野を離れ、古墳のフィールドワークをする毎日だ。全国を飛び回る姿からは、四半世紀近くにわたってC型肝炎ウイルスとの闘い、肝臓がんの大手術を受けた「過去」は想像しにくい。

通告は突如やってきました。2010年8月30日夜、自宅近くのファミリーレストランでカレーライスを食べていたら携帯電話が鳴り、主治医から「草野先生、横隔膜近くの肝臓に26㍉のがんができています。すぐ手術を」と言われたのです。
 👦観念して手術
「なぜ?」「来るものが来てしまったか」という二つの思いが交錯しました。前者は、その17年前にウイルス肝炎と分かって以降、炎症を抑える注射治療を続け、肝機能の数値は正常範囲だったから。後者は、母も、弟も肝硬変や肝臓がんで亡くしていたからです。
「お任せします」と観念するほかなかったですね。手術は7時間に及びました。病室で考えたのは、使命感というと大げさですが、早く大学に戻らないと学生たちに申し訳ないということ。2週間で退院し、10月半ばからゼミに復帰しました。
退院後間もなく、ありがたい話が来ました。私の討論形式の授業(戦後日本外交論)をNHKの「白熱教室JAPAN」という番組で放送しないか、と。正直迷いました。私の授業はイデオロギー色が強く、視聴者から抗議が殺到しそうですし。でも映像の記録に残るという魅力には勝てません。量を増やして行う予定だったインターフェロン治療は、番組の収録まで待ってもらいました。
教壇を去る数年前から、討論の際に気になることがありました。学生にナショナリズムが高揚している状況です。韓国や中国を嫌う理由を聞いてみると、それほど深い知識に基づくものではない。近現代史をつまみ食いしているんですね。
何とかしないと、と思う一方で、私自身が国の出発点の古代史をろくに勉強していないと気付き、退職後本格的に古墳巡りを始めました。これまでに約300基を動画に収めました。何事も突き詰めなければ気が済まない性分ですから。
 👦元気なうちに
がんを引きずるのではなく、「なってしまったものは仕方ない」というある程度の諦めも、順調な回復を後押ししたと思います。巨大な古墳を造った人たちの苦労を考えれば病気なんか小さい。それを確認する旅。忘我(ぼうが)の境地でしょうか。同時に、再発して歩けなくなってしまうかもしれない、元気なうちに成し遂げたいと、自分を急がせている面もあります。
振り返れば、C型肝炎の診断以降、病院通いは生活の一部。病といかに付き合っていくか、でしたね。ウイルスとずっと同居していたわけですから。それも達観につながっているのでしょう。
支えてくれたのは趣味です。一つはパイプオルガン。仕事が縁で自宅にマイオルガンを持つに至り、教室にも通いました。下手ですが、その響きには癒されます。
もう一つは、走ることと格闘技。これは病に勝てる体をつくったかもしれません。今もジムに通い、ボクシングのようなことをしています。気分転換にもなりますね。
新薬の効果もあり、今年春の検査でウイルスは検出されませんでした。がんには引き続き注意が必要ですが、ウイルスは「ついに退治したか」という感じです。アドバイス? 病になっても「療養に専念」との考えは取らないで、と言いたいです。
(文・橋詰邦弘さん)平成29年3月20日地元朝刊掲載

 

熊をめぐる物語

随想

昨年の夏、猪苗代町のある肉屋で熊肉が売られているのを見つけた。珍しいから店の主人にどこ産の肉かを尋ねてみた。「すぐ近くの吾妻山で春に獲れたのよ。親子連れだったそうだが、子熊の方は福島市の居酒屋の主(あるじ)が引き取っていったと聞いたよ」
池澤夏樹著「静かな大地」の熊の物語を思い出した。アイヌの人々は春、弓矢で熊を狩る。親熊の肉は食われ、毛皮は剥がされ、熊胆(くまのい)は万病の薬として珍重された。子熊は家へ連れ帰って大切に育てる。客人のようにもてなし、人間と仲良くなって大きくなったら山に返す。つまり、最後は殺されてしまう。でも、その熊は人間に良くしてもらったよという土産話を持って天に昇る。それを聞いたほかの熊たちは、生まれ変わるなら優しい人間の住む村の近くにしようと言い合う…というお話。
件(くだん)の子熊はどうなったのだろう?
再びショーケースに並んだ熊の冷凍肉に目を戻す。約10㌢ほどの厚さにカットされた肉の断面は二層に分かれている。黒っぽいのは肉で、白っぽいのは脂身だがかなり多い。好奇心からその肉を買いたい衝動に駆られたが、料理法が分からないので諦めた。
つい最近、アウトドア仲間と一緒に山小屋に泊まった際、私は初めて熊汁を食す機会を得た。メンバーの中に熊汁なら何度も食べたという人がいて、熊汁作りを指南してくれた。「熊汁はね、世間で言われるほど臭くはない。よく獣の肉は味噌仕立てで臭みを消す、なんてこというけど、熊汁はむしろ醤油の方が旨いんだ。肝心なのは、水から煮てじっくりアクを取り除くこと」と教えられた。
我々は熊肉の鍋を火にかけた。じっと見ていると、ブクブクと驚くほどアクが出てくる。それを丁寧にすくい、弱火でコトコト煮て気長にスープを作った。仕上げに野菜を入れ、醤油で軽く味付けをして熊汁の完成。さっそく食べてみると、こくのある濃厚な味が口中に広がった。獣臭さはない。スープに野菜の旨味と醤油の香りが絡んで実に美味しい。肉も柔らかく、脂身も溶けるように喉の奥に滑り込んでゆく。一同マタギの喜悦を味わった。
熊汁を食べ終わると、急に身体がポカポカしてきた。外は大雪だというのに、散歩に出かける者もいたほど。熊汁は山男のパワーの源だったんだなぁー。
アイヌの人々は狩りの後、獲物の魂を手厚く神の国に送ったという。自分たちの腹を満たしてくれてありがとうと述べ、その魂が神の国に帰って再び地上に生まれ変わることを祈るのだそうだ。
熊肉は珍しいからたまたまこんな話を思い出したけれど、我々は日々、他の命に自分の命を支えてもらっていることを忘れがちだ。こんな機会だから…とその夜、私は雪降る森の中で「熊さんありがとう」と手を合わせた。

NPO法人あったかネット理事・立花美由紀さん)平成21年2月5日地元朝刊掲載

 

修羅を抜け、命問う

次男自死、妻の破綻…宿命受け止めた 作家 柳田邦男さん

悲しみは真の人生の始まり。肉体は滅んでも魂は生き続ける―。作家の柳田邦男さん(80)は事故や災害、闘病の現場に立ち、命の意味を問い掛けてきた。年齢とともに円熟味を増すその死生観は、57歳で経験した壮絶な体験抜きに語れない。
▣打ちひしがれ
対人恐怖症などに苦しみ自宅に引きこもっていた25歳の次男が、自室のベッドで首にコードを巻き、自死を図ったのは1993年の夏の夜。搬送先の病院で蘇生後、脳死と判定され、臓器提供に至る経緯と家族の葛藤は、95年の労作「犠牲(サクリファイス)」に詳しい。
修羅は続いた。感情の起伏が激しく、抑うつを抱えて入退院を繰り返していた妻の人格が、愛息の死を受け止めきれず破綻の危機に追い込まれた。台所から刃物を持ち出し、首をつるなど問題行動が続発。柳田さんも心労で心身の平衡を失い「妻にも息子にも申し訳ない気持ちでいっぱい。無力感と自責の念が胸をふさぎ、死んで謝りたいと思った」と打ち明ける。
なぜ救えなかったのか…。
答えのない自問を繰り返し、「外のことばかり書かずに、この家の地獄を書けよ」と迫った生前の次男の言葉に打ちひしがれた。命の危機と向き合う苦しみを本当には理解していなかった自分の非力を痛感した。
▣背中を押され
窮地を脱出できたのは「母のおかげ」と柳田さんは言う。敗戦翌年に肺結核で夫を奪われながら、粛々と子育てを全うした母。内職で家計を支え、子どもたちの食べ残しで空腹をしのぐ愛情深い姿が、今も目に焼き付いている。
「宿命を受け入れ、でも諦めない。気が付けば難所を越えている。そんな母の生き方が背中を押してくれた」。止まっていた「物書きの日常」が再始動し、雑誌と新聞で執筆を再開。書くことで内心のカオス(混沌としたさま)から物語を紡ぎ出し、約一年で書籍刊行にこぎ着けた。
「市井(しせい)の人々の肉声を知りたくて」NHK記者となったのは60年のこと。連続航空機事故を検証した初の著書「マッハの恐怖」を出版し独立後は、科学が照らせない人間存在の深みに目を凝らした。中でも急増中だった「がん」をライフワークに設定。医師の日野原重明さんや心理学者の河合隼雄さんとの出会いもあり、死を宿命づけられた患者や家族の内心に迫る「死の臨床の心理学」を志した。「今から思えば、まるで次男の未来を予見していたかのように死の臨床へ導かれていった。これも宿命でしょうか」
▣越えていく
魂の不滅を教えてくれたのも次男だと感じている。人は一人で生きているのではなく、家族や友人、恩師や先人の魂に生かされている。「自力で人生を切り盛りしていると思ったら大間違いです」
だから、どんな悲しみも不幸ではない、と断言する。近視眼的には「負の時間」でも、悲しみがあってこそ、人は生きる意味や他者の恵みに目を向けることができる。「人生に無意味な時間はありません。息子や妻のおかげで僕の人生も豊かになったと思っています」
熟慮の上で妻と籍を分け、現在は新たなパートナーと歩む柳田さん。最近は、絵本を使った出前授業などで子どもと触れ合うのが楽しくて仕方がないと目を細める。「仮設住宅で暮らす被災地の子どもも、絵本を描く時は日頃の悩みを忘れて、すごくいい表情をするんですよ」と喜色満面で言う。人生の山も谷も知り尽した笑顔が輝いた。

「『仕方なかんべさ』『何とかなるべさ』というのが母の口癖でした」(柳田さん)

平成29年1月11日地元朝刊掲載

 

乾為天(象伝)

象に曰く、天行(てんこう)は健なり。君子もって自強(じきょう)して息(や)まず。
潜竜用うるなかれとは、陽にして下に在ればなり。見竜田に在りとは、徳の施(ほどこ)し普(あまね)きなり。終日乾乾すとは、道を反復するなり。あるいは躍りて淵に在りとは、進むも咎なきなり。飛竜天に在りとは、大人の造(しわざ)なるなり。亢竜悔ありとは、盈(み)つれば久しかるべからざるなり。用九は、天徳(てんとく)首たるべからざるなり。

〔象伝〕
天体の運行は健やかで息(や)むことがない。君子はこの健やかさにのっとって、みずから強(つと)めはげむ努力を怠ってはならぬ。
潜竜用うるなかれというのは、陽剛の徳があって最下の位地に居るからである。見竜田に在りというのは、ようやく徳の感化があまねく行きわたるようになることである。終日乾乾すというのは、反復して道を履(ふ)み行なうことである。あるいは躍りて淵に在りというのは、時機が到来したら前進しても咎を免れるということである。飛竜天に在りというのは、ただ聖人だけがなし得る業(わざ)なのである。亢竜悔ありというのは、盈つればやがては虧(か)ける道理で、長くはその状態を保ち得ないからである。用九の戒めは、陽剛の天徳を恃んで人の先頭に立ってはならぬということである。

 

乾為天(彖伝)

 

彖(たん)に曰く、大いなるかな乾元(けんげん)、万物資(と)りて始(はじ)む。すなわち天を統(す)ぶ。雲行き雨施し、品物(ひんぶつ)形を流(し)く。大いに終始を明らかにし、六位(りくい)時(とき)に成る。時に六竜(りくりゅう)に乗り、もって天を御(ぎょ)す。乾道(けんどう)変化して、おのおの性命を正しくし、大和(だいわ)を保合(ほごう)するは、すなわち利貞(りてい)なり。庶物(しょぶつ)に首出(しゅしゅつ)して、万国ことごとく寧(やす)し。

〔彖伝〕

偉大なるかな、乾元のはたらきは! よろずの物はこれをもととして始められる。言うなれば天道の全体を統べるのが乾の元徳である。この乾元の気はやがて雲となって流行し雨となって降りそそぎ、ここによろずの物もその形体を備えるにいたる。これが乾の亨徳すなわち流通のはたらきである。かくて乾卦においてはきわめて明らかに天道の始終が呈示され、それぞれに時機に応じて六爻の地位が措定(そてい)されている。故に聖人たる者はしかるべき時々に六竜すなわち六爻の陽気にうち乗り、天道を馳駆(ちく)することを得るのである。さらにまた天道は刻々に変化するが、その変化に応じてよろずの物(草木も人間も)は天から稟(う)け与えられたそれぞれの性命を正しく実現し、大自然の調和を保有し和合する。これが乾の利貞の徳である。故に聖人たる者がこの天道にのっとって、衆庶(しゅうしょ)にぬきんでた地位をとり保つならば、万国はことごとく安寧を得るのである。