朴念仁の戯言

弁膜症を経て

魂の自由、真実求めた作家

ソルジェニーツィンを悼む

ソルジェニーツィンのことを手紙に書く場合はSとだけ表記しよう」。これが1972年にロシアの学生の一人と取り決めた暗号だった。手紙が国境で開封されることを予測しなければならなかった旧ソ連時代、「ソルジェニーツィン」という名前は抵抗と反体制と自由のシンボルであり、危険な、同時にまた極めて魅力的な響きを持っていた。
アレクサンドル・ソルジェニーツィンは1918年にカフカスのキスロボーツクに生まれた。第二次大戦中は砲兵中隊長として戦ったが、1945年にスターリンを批判したとして逮捕され、8年の刑に処せられた。この強制収容所ラーゲリ)での体験をもとに書かれたのが小説「イワン・デニーソヴィチの一日」(1962年)だった。ラーゲリで働く男の、起床から就寝までを淡々と描いたこの小説は、世界的なベストセラーとなった。
衝動的だったのは、ラーゲリの日常を公的に暴露してしまっていること、それが驚くほど精緻(せいち)に彫琢(ちょうたく)された文体で表現されていること、また掲載されたのが中央の権威ある雑誌であったこと、過酷な状況の中でも「満足して」眠りにつく主人公シューホフの姿だった。
その後も彼は珠玉(しゅぎょく)の短編「マトリョーナの家」(1963年)や長編「煉獄(れんごく)の中で」(1968年)、「ガン病棟」(同)などを相次いで発表し、1970年にノーベル文学賞を受賞するにいたる。
ソルジェニーツィンは1967年のソ連作家大会にあてて検閲の撤廃を訴える書簡を送るなど、権力への抵抗の姿勢を貫き、1958年から1967年にかけて書かれた主著「収容所群島」の原稿が秘密警察に押収されると、73年にパリでの出版に踏み切った。これはラーゲリの囚人たちの姿を「虚構なしに」描いたもので、ドストエフスキー作「死の家の記憶」やチェーホフ作「サハリン島」など、19世紀ロシア文学の伝統を20世紀に継承するものだった。
スターリン体制下、全体主義国家の中での人々の悲惨な生活を、時にはユーモアさえ交えて記録し、集め、記憶し、告発しようとする試みであった。1974年、市民権を剝奪(はくだつ)され、国外追放となる。この前後に書かれた「嘘によらず生きよ」(『クレムリンへの手紙』所収)は今も私たちに痛烈なメッセージを発し続けている。
やがてアメリカのバーモントに居を構えたソルジェニーツィンは1991年まで大河小説「赤い車輪」(その最初の部分は『1914年8月』と題して翻訳されている)に取り組んだ。これはトルストイ作「戦争と平和」を思わせる、第一次世界大戦からロシア革命にかけてのロシア社会に激動を、当時の新聞の記事を収録するなどして、複数の観点から立体的に描く壮大な「歴史的叙事詩」」である。
「収容所群島」がペレストロイカ期のソ連で公刊された後の1994年にソルジェニーツィンは帰国し、帰路の途上でも民衆の言葉に耳を傾け、記録して、ロシア社会と精神の再生を図るプラン「廃墟の中のロシア」など、いくつもの提言を続けた。
魂の自由と真実を求め、民衆と祖国への愛にあふれ、全体主義に意義申し立てをする堅固な意思と勇気を持ったソルジェニーツィンの名は、ロシアの人々の心から、また世界の文化史から、消え去ることないだろう。

ロシア文学者、早大教授の井桁貞義さん)平成20年8月19日地元朝刊掲載

 

こびなければいい

画家の堀文子さんが語る「老いの哲学」②

昨年、入院いたしまして。熱でうなされていたら死に神が見えました。テナガザルのようなのが私の背中にしがみついている。絵描きなもんですから、映像人間なんでしょうね。〝死〟が形になって現れる。おもしろいですね。
その状態に、だんだん慣れてくるんです。これはいけないと思いまして病院から逃げ出してまいりました。「死のリハーサル」をしたようなもので。それからどうも違う人間にね、細胞が入れ替わって生まれ変わったような気がします。
老いてまいりますと、自分の無能が耐え難くなってきますから。自分が崩壊していく音が聞こえてくる。その感じは若い人に「先生、頑張ってください」なんて言われて「はい」っていうような生易しいものじゃないんです。初体験なんですから。
死が怖かったのは50くらいのときでしたね。朝起きて「ああ、生きていた」と息をのむ。水平線まで永遠に続いていた生に塀が築かれたような。そんな恐怖が二年くらい続きました。
でもそれは、頭で考えている死だったんですね。今は違います。死がね、もう私の細胞の中に入り込んでいる。五割か、七割か。全部が占領されたときに、終わるんでしょうね。頭で考えた死と違う。暗くない。
老(おい)が身のあはれを誰に語らまし杖(つえ)を忘れて帰る夕暮
良寛が惻々(そくそく)とね、弱っていく自分を静かに受け入れて老いを生きるさまを詠んでいるのに、救われましたね。
夜もすがら草のいほりにわれをれば杉の葉しぬぎ霰(あられ)降るなり
何でもないんだけど、すぐそこにいる友だちみたいな親近感がわくじゃありませんか。でも死者なんです。われわれの知己(ちき)はみんな死者。この世に生まれて死ななかった者はいない。人類がこれまでに何百億人いたか分かりませんけど、そのすべてが死という道を通ったと思うと、荘厳ですね。
やまかげの岩間につたふ苔水(こけみず)のかすかにわれはすみわたるかも
良寛ほど澄み切った心境で生きるのは難しいですけど、近づくことはできますわね。こびなきゃいいんですから。私もせっかく生還いたしましたので、好きなことしてやろうと思って。
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはまされる
一人遊びですね、私も。

平成20年7月某日地元朝刊掲載

天安門世代が引かれた感性

評論『楊逸さんに芥川賞

日本文化の特徴が「情」であるなら、中国は「意」と「理」の文化になろう。性格の異なる二文化の間を越境するのは簡単ではないが、原理原則にとらわれない個人の感性を奔放に筆先に任せるありかたは、楊逸(ヤンイー)さんの芥川賞受賞作「時が滲(にじ)む朝」を読んで知った。
最後が象徴的だ。「ふるさとはね、自分の生まれたところ、そして死ぬところです。お父さんやお母さんや兄弟たちのいる、暖かい家ですよ」。こう主人公が子どもたちに語った時、幼い〝たっくん〟に語らせて締めくくる。「じゃ、たっくんのふるさとは日本だね」
地理的祖国意識を越境して、日本人のふるさと志向に移った象徴的なせりふだと思う。主義や思想の難しい論争と無縁のふるさと志向が明らかにうかがえる。
日本人にとって、ふるさとは山・川・海・野原・田んぼの景観に集約される。東京や大阪で生まれ育つと「ふるさとがない」とこぼす人も多いが、自然を核とするふるさと志向は日本人が共有しているように思える。
「兎(うさぎ)追いしかの山、小鮒(こぶな)釣りしかの川…」という、よく口ずさまれる唱歌は、理屈でない自然との一体感が基調になっている。理屈優先の大義名分よりも、自然風土への帰属感が本能的に働いたと考えられる。原理原則を唯一の判断基準に基づく思考から分かりにくい、強い「自然体」の望郷であろう。
受賞作の中では、何度も尾崎豊の曲が流れ、歌われる。主人公と親友は日本で再会しカラオケに行く。「俺の孤独、この胸に仕舞った、この拝金社会に生きる人間には理解の出来ない狼の孤独を、がっちり守ってくれているような気がするんだ」。画面の尾崎に向かって、友との間に理屈ではない一体感がよみがえる場面が濃厚に描かれている。
楊さんは早くから日本への好奇心があったという。ハルビンでの中学時代、日本にいた親類が送ってきたカラー写真で美しい日本に魅力を感じたというのだ。あこがれの日本留学を選び、卒業後も帰国しないで日本で暮らしているという。がむしゃらに話しかけ、日本語の習得が早かったのは、日本に溶け込みたいという熱意だけでなく、日本の文化風土に引かれ、持ち前の気性と適合したからであろう。
理念と論理を重視する伝統のある中国で、小説は理屈を説く手段とされてきた。日本の私小説のように個人的心理体験に重点を置いて、感性で記述する手法は少なかった。その点でいえば、受賞作には理屈をこねくり回すシーンはほとんどなかった。体験描写手法に終始した作品は日本の小説風土にマッチしたといえそうだ。
作者と同世代で、天安門事件で挫折し学業を放棄せざるを得なくなったような人たちにとって、愛国主義や民主主義、自由、個人と国家について問い直すことは宿命でもあろう。それが小説のテーマともなっている。天安門世代には、母国の適度な情報が得られ、適度な距離をおくことのできる一衣帯水の日本ほど適切な思考の「書斎」はなかったかもしれない。
楊さんの受賞は日中間を越境できる文学が日中両国で育ちつつある証しであり、表現方法など幅広いジャンルで相互補完しあい、完成度の高い作品を生み出し得る方向を示している。同時に日本が確実に多文化共生の時代にあることを告げている。
感性的な日本文化は言葉での発信の難しさを内包している一面があるが、楊逸さんの芥川賞は、日本文化の可能性を開き、世界平和にもっと貢献する時代の到来を示している。

(法政大教授の王敏(おうびん)さん)平成20年7月某日地元朝刊掲載

 

土踏まず

芥川賞に決まって

暑い夜だった。受賞の知らせを受けたときにその暑さで眩暈(めまい)し、電話を持つ手も震えた。日本に来て21年、人生の約半分の歳月がこの海に包まれた国の風に吹かれていった。しかしその瞬間、風のように跡形もなく消え去ったはずの歳月が一気に体に戻った気がした。シュレッダーから出した紙くずのようなくちゃくちゃになったものが体内で引火して燃え上がった。きっと喜びだったに違いない。
21年間、日本語を一から勉強し始め、単語の一つ一つが体に入ってきたときの情景が、どれも鮮明に印象に残っている。初めてすしを食べたとき、わさびの辛さで涙目になりながらも、言葉で表すこともできず、悔しさでさらに泣きたくなったことや、風邪でのどを痛めても「痛い」と言えず、せき払いばかりしていたこと。そしてあの暑い夜、紙くずのように乱れた思いで燃え上がる喜びを覚えつつも、「うれしいです」としか表現しようがなかった。
いつだったのだろうか、足の疲れを取るマッサージ法を日本人の友人に教えようと一生懸命になっていた。ツボが多く集まる足裏の各部分を説明するのに一苦労。どうしても言葉で伝え切れず、結局靴を脱ぎ、靴下も脱ぎ、汚いナマ足を人目にさらけ出して説明するほかなかった。恥ずかしかった。家に帰るなり、早速辞書に飛びつき調べた。足裏の真ん中のへこみは「土踏まず」と書いてあった。思わず笑った。足に力を込めて強く畳を踏んでみた。もちろん何も付かなかった。付きようもなかった。畳だからだ。
土踏まずを知った喜びが簡単におさまるはずもなく、待ちに待ったその週末に湘南海岸に向かった。なぜ?と問う声が今聞こえたようだった。もちろん本当に「土踏まず」なのかと実証を取るためであった。
両手に靴をぶら下げ、足を砂浜に踏み入れ、歩き出した。何も付かなかった。歩き回った。何も付かなかった。
走り回っても、砂浜で転げ回っても、全身は砂だらけになったが、足のへこみには何も付かなかった。土踏まずは砂も踏まなかった。私は砂人形になって、砂浜に座り込み、いつまでも土踏まずに感激していた。
その時、その砂まみれの体で覚えた日本語を使い、小説を書くということは想像すらできなかった。が、あの暑い夜、東京会館の記者会見でその砂まみれの体が脳裏に鮮明によみがえった。感極まって泣きそうにもなった。
しっかり日本の土を踏んで、土踏まずも土まみれになるほど踏み込んで、しっかりと栄養を吸い取り、いつか体から文化の良い色が滲(にじ)み出てくれたらと願うばかりである。

(作家の楊逸(ヤン・イー)さん)平成20年7月28日地元朝刊掲載

アジサイと回想

『水の透視画法』生きるに値する条件

むしむしする。シャツが肌にへばりつく。こんな状態のことを、お粥(かゆ)につかったみたいに…とかなんとか形容した人がいた。うまいことをいうものだ。でも、だれがいったのであったか。のどもとまででかかっているのに、どうしても思いだせない。歩いているだけで汗がたえまなくふきでてきて、遠い記憶までとろとろと流しさってしまう。図書館に入るまでに思いだすだろうか。中庭でアジサイの群れにみとれたら、青く眼(め)をそめられた。汗がしだいにひいていき、お粥のことをあっさりと忘れた。毎日まいにち、そうやって記憶がこぼれ、私はただ老いていく。
本を借り一部を複写しにいくと、二階のコピー機は若い男女が使用中だった。私は女性のうしろに立った。しけった紙のにおいをかいくぐって、彼女の地味な衣服からだろうか、遠慮がちなシナモンの香りがしのびよってきた。男は眼がねごしに食い入るように文庫本を読み、ページをえらんでは複写台にのせて拡大コピーをとっている。女はそれをうかない表情でてつだっている。ふりかえった男と眼があった。すかさず会釈し、ふくむところを感じさせない澄んだ声で問うてきた。「あっ、すみません。あと十枚ほどあるので、先になさいますか」。いい終えるや、こんどは手話で彼女になにごとかつたえ、私の返事をまたずに複写台から本を回収しようとしている。そのとき書名が見えた。『将来の哲学の根本命題 他二篇』。
絶句した。のぞきこむようにしてもう一度見る。やはりそうであった。胸に甘ずっぱいものがわいてきた。そこのソファーにすわっているから、ゆっくりやってくださいとかすれ声でいうのが精いっぱいであった。この世から完全に消えていたとばかり思っていた本が街の図書館にあり、しかも若者に閲覧されている。百万分の一ほどの確率かもしれない。だからこそ仰天した。一冊の本が千人の人との出逢(であ)いよりも自分を変えることがある。日めくりでも書いてありそうな陳腐なせりふだけれど、事実である。あの本はそんんな一冊であった。
若い男女はそこだけ透明な遮音膜でかこまれているように静かに作業をつづけている。ときおり手話でことばをかわす。彼女はコピーされた文を読むというより、こころなし憂うつそうに眺めている。私はそれを近くのソファからはらはらしながら見つめ、必死で記憶をたぐっている。たしかに本にはこう書いてあるはずだ。初見後四十数年間、それだけははっきりとおぼえている。「悩むことのできるものだけが生存するに値する」。これまで何万回反すうしたことか。正直、その一行に救われたこともある。悩むことのない存在は「存在のない存在」なのだ、ということも記されていたと思う。二人はあのくだりにこころをひかれるだろうか。
食うや食わずの学生時代に訳書を読んだ。パソコンも携帯もない昔のことだ。ラーメン屋の出前のアルバイトをしながら読書し、安い映画館にかよい、デモにいき、殴られ、殴り、逮捕された。つきなみな経験である。友人からマルクス以前とばかにされたこともある。あの本の著者フォイエルバッハにいつまでもこだわり、マルクスを理解しなかったからだ。まわりがみな秀才に見え、自分はとびきり愚鈍に思えてしかたがなかった。
哲学を「死んだ魂の国」から「生きた魂の国」によびこむ使命のようなこともあの本には書いてある。たんなる「思想の法悦」から「人間的悲惨」のなかに哲学をひきおろさなければならない、とも著者はうったえていたはずである。十九世紀中葉のそれらの思念を、私はいまだにこえることができずにいる。「人間的悲惨」のなかに哲学をひきおろすとはどういうことかと、「人間的悲惨」だらけの現在もなお、いや、いまのほうがもっともっと途方にくれている。二人がコピーを終えた。「おまたせしました」と彼が笑顔でわび、彼女と手話しながら帰っていく。都合二十本の指が、眼の先で夢のようにしなやかに踊っている。シナモンの香りが遠くなる。私のなかで四十数年とどこおっているものを、二人が軽々と飛びこえている気がした。
夕まぐれであった。アジサイが青みをましている。しめった空気を、お粥につかりこむように、漕(こ)いで歩いた。お粥とはだれの表現だったか、思いだせない。

(作家の辺見庸さん)平成20年7月4日地元朝刊掲載

大統領令 差し止め命じた判事

弱者に寄り添う人権派

【ロサンゼルス共同】
米西部ワシントン州シアトルの連邦地裁でイスラム圏7カ国からの入国を禁じる大統領令の一時差し止めを命じ、一躍「時の人」となったジェームズ・ロバート判事(69)は、難民や障害のある子ども、黒人ら社会的弱者に寄り添う人権派として知られている。
米メディアによると、同州シアトル生まれのロバート氏は30年以上法律事務所で勤務後、当時の共和党ブッシュ大統領(子)の指名で、2004年に連邦地裁判事に就任。本人も共和党を支持していたという。かつての同僚は「とても慎重な判事。法の解釈は保守的だったが思い切った適用をした」と話す。
ロバート氏はシアトルで精神障害のある子どもらのケアをする施設の代表も過去に務めており、妻と共に6人の子どもを養子に迎えている。東南アジアからの難民の弁護も長年無料で引き受けていた。
警察の黒人に対する行き過ぎた武力行使が全米で問題視されていた2016年、法廷で、人口に占める黒人の割合が約20%なのに警察の発砲で命を落とした人の41%は黒人だと指摘。黒人の人権尊重を求める合言葉「ブラック・ライブズ・マター(黒人の命だって大切だ)」を述べ、話題になったこともあった。
上院から連邦判事の承認を受けた際は「差し迫った必要性や問題を抱えた人を助けられることが、法の執行の最もやりがいのあるところだ」と述べ、「 法廷を後にした人に、公正な裁きを受け、自身も法体系の一員として扱われたと思ってもらえるような仕事をしたい」と抱負を語っていた。

平成29年2月7日地元朝刊掲載

 

明日はまた新しい自分を作り上げる

若い世代へ励まし 酒井大阿闍梨が講演

比叡山の荒行「千日回峰行」を二度達成した酒井雄哉大阿闍梨(あじゃり)が大阪市内のホテルで「みのり」をテーマに講演。自身の体験談を交え「環境が変わると、人はよい方向に変わる」と若い世代に励ましの言葉を贈った。
80歳を超える酒井師は、約860人の聴衆を前に約一時間半、立ったままで講演。まず、比叡山中を中心に千日間歩いて巡拝するという天台宗独特の苦行である千日回峰行について説明。続いて出家する前の30歳代の逸話に移った。
あるとき、顔見知りの僧侶に「そろそろどうするか、しっかり考えないといけない」と諭され、お寺の下働きをして生きていこうと決意。39歳で得度した。
修行を始めた当時は、延暦寺の開祖の名前も知らず、教養を身に付けるように命じられ、天台宗の僧侶になるための叡山学院で聴講生となった。
「小学生から落第生で、辞書の引き方も知らなかった」。しかし、夜、師僧の勉強を手伝ううちに、学院の試験で平均80点の成績を取るまでになった。
その後、本科生になり、努力を続けたという酒井師。こうした姿勢を延暦寺の住職も認め、寺に残って僧職に就けるように取り計らってくれた。90日間も仏堂にこもり、堂内を歩き続ける「常行三昧(じょうぎょうざんまい)」などの修行を成し遂げ、異例で住職になれたという。
さらに回峰行の苦行体験などを披歴した後、「環境や流れがよくなると、よい方へずっと流れていく。子どものころからダメな人でも、一つ『知恵』をもらって肥やしを与えていけば、必ずいい道が開ける」と強調。
「若いうちは目前のことにとらわれ、道を間違うことがある。今、何をすべきかを大きな視点で考えてほしい。大人も、若い人々にアドバイスしてあげる必要がある」と結んだ。

平成20年7月4日地元朝刊掲載