朴念仁の戯言

弁膜症を経て

露草の声 ⑱

彼が左手に持つ箸の運びは誠に美しく少しも不自然ではありません。
やがて彼は荷物の中から二、三葉の短冊を取り出して、私に見せました。
いずれも俳句ばかりで、雅味のある千蔭(ちかげ)流と思われる書体も私を悦ばしてくれました。

「あんた、二、三日ゆっくりと句でも詠んで静養しなさい。いずれへか、お世話いたしましょう」

私はこの人ならどこかのお寺の受け付けに坐らせてもらったらよかろうと思いました。
彼は嬉しそうに笑って頭を下げました。
彼の返事は笑顔か、頭を下げるかの二つだけであります。
彼はやがて荷物の中から仕事の服と着かえ、畑にゆき、南京の棚の後始末やら、風呂の水くみやら、ちょっとの間も惜しむように立ち働いておりました。
午後は彼とお茶を飲みながら、
「あんた、ね、花、好き、そう、花が好きらしい顔してますね。それなら、庭に何か花があるでしょ。どれなと生(い)けてください。花器はあそこの戸棚にあるのを使ってください」

私はそう言って仕事にかかり、夕方湯から上がりまして座敷の床を見てアッと驚きました。
床には私の大好きな古備前(こびぜん)に糸すすき一本に桔梗(ききょう)が一輪添えてありました。
次の茶室には魚籃(ぎょらん)に昼顔の花が笹にからませて床柱にかけてありました。
昼顔の花は明日を待つように瑞々(みずみず)しい姿を見せております。
彼は筆を取って、
「昼顔は明日咲くと思います。糸すすきはここの谷川のほとりにありましたのを見つけてきました」
「そう、よく生けられましたね。あんた差し支えなかったら詳しく話してください。あんたのご両親は?」
「ハア、父に早く死に別れまして母の手一つで22歳まで一緒におりましたが、母とも死に別れて一人ぼっちになり、淋しく過ごしておりますうち、思わぬ事故で不具となり、その当時は苦しい月日を過ごしましたが、誰も僕の好きな道を歩ましてはくれません。みな不具者という眼で見てしまわれます。いくら人々から軽蔑されましても決して悲しくも辛いとも今は思いません。僕に花と言う娘が、自然に咲いた子が、行く先々に待っていてくれます」
「そうね、花という清らかな娘がね。そしてあんたの母御はどんな方、さぞかし優しい、良いお母さんでしたでしょうね」
「僕の母は京都の嵯峨未生(さがみしょう)を幼いときから習い、僕が22歳のとき、母は病の床からも花のことを教えてくれ、一生花とともに花の中で安らかに眠ってゆきました。僕はこの世に花のある限り淋しくありません」
と、にっこり嬉しそうに笑っていました。
私は、頷きながらも、さもあらんと、いつまでも彼の面をじっと見ておりました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)