朴念仁の戯言

弁膜症を経て

種蒔く人 ⑧

このようなわけでこの札幌の本屋さんが、私にとりまして大恩人でございます。
自分で行きますればたいへんな費用がかかりますが、厚生省から行けといわれる。こんな結構なことはございません。
まず札幌に行って、50銭の大辞林をくださったあの本屋さんに会いたい。
もう亡くなっておられたら、せめてご家族の方にでもお目にかかりたいと思って、喜んで札幌にまいりました。

たくさんの方のお出迎えをいただき、さてホテルに落ち着きまして、身体障害者の会の理事長さんに、
「私は札幌にお招きにあずかり、二つ返事でまいりましたが、これにはわけがあるのでございます。実は札幌の本屋、そのころこんな形のこんな本屋さんでございましたが、その本屋のご主人がご健在なら、私はこれほど倖せはございません。せめてご家族の方にでもお会いすることができましたら、そのときいただいた大辞林のお礼が申しとうございます」
と当時のお話を申し上げますと、理事長さんが、
「はあ、不思議なめぐりあわせですね。その本屋なら私の親父ですよ」
とこうおっしゃいます。
「へえー、理事長さんのお父さんでしたか。まだご健在ですか」
「健在も健在、80幾つで、ピチピチしております」
こう聞きましたときは、涙が出るほどうれしゅうございました。

「じゃ、会わせてくださいますか」
「会うも会わんもありませんよ、親父よろこびますよ」
とすぐに電話してくださいました。
さっそくまいりましたところ、もう白髪のご老人、いまは札幌の富貴堂という百貨店の社長さんになっていらっしゃいました。
お目にかかるなり、
「そうですか。あなたでしたか」
と社長さんも感慨深げでございました。

「私は社長さんから、そのとき50銭でしたが、あんたの気持がうれしいから、この本をあげましょうといって、大辞林をいただきました。それから字を引くと申すより、ちょっとの時間があれば、その本を開いてめくら滅法に、いつでもその大辞林を見ていました。そのとき教えていただきました聖書もございます。この二つをいまも座右に大切にいたしております」
「そうですか。大辞林のことは記憶にはありませんが、キリスト教がわからなくて、てこずらされたことは覚えておりますよ。どうでしょう、私の店には店員が200人ばかりおりますが、今晩店が閉まってから、お話をしてくれますか」
「ええ、喜んでさせていただきます」
とお約束したのでございます。

当夜、演壇に立ちまして、仙台から北海道への巡業の道順を申しまして、札幌にまいり本屋さんに行ったところまでお話し申しますと、社長さんが、
「ちょっと待ってください、もうたまらんから私にしゃべらせてください」
といってお起(た)ちになりました。
「どうです、みなさん、私は宗教ということ、信仰ということは結構だとは思っておりますけれども、こう如実にあらわれるとは知らなかった。今聞かれたように、手のない人が飛び込んできて、字引きがわからない、何か適当なものをといわれて出したのが、大辞林であったそうです。50銭のお金はいらん、あんたにあげましょうといって、その本をあげた。その大辞林でもって勉強されたということはうれしいことじゃありませんか。蒔かぬ種は生えぬということを、みなさんがたによく申しましたね。きょう種を蒔いて、すぐあす実るものではありません。40年前に差し上げた大辞林が縁となって、きょう、この札幌に来てくださった。口でものを書くようになられた今日までの努力の源が50銭の大辞林であったかと思うと、たまらないほど私はうれしい。どうかみなさんもいい種を蒔いてください。種を蒔かずして、どうして花が咲くでしょうか。よい種は蒔きたいものですなあ。―さあ、これだけ言わせてもらったら、あとはどうぞ続けてください」
といって退かれました。店員の方々が声をあげて泣いていらっしゃいました。

この話がいいニュースだというので、地元の新聞はもとより、東京の新聞にまで取りあげられたのでございます。
社長さんが、蒔かぬ種は生えぬとおっしゃってくださいましたお言葉が、ほんとうに私は身にしみてうれしゅうございました。ああ、札幌に来てよかったと思いました。
今年の年賀状にも「あんたからものをもらって、代筆ではもったいない」とおっしゃって、「相変わらず活躍してください。私も80幾つでも負けませんよ」と書いてございました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より