朴念仁の戯言

弁膜症を経て

大仏破壊 強い衝撃

知らずしてわれも撃ちしや春闌(た)くる
バーミアンの野にみ仏在(ま)さず        平成13(2001)年 皇后

複雑な人間心理の奥を詠まれた一首である。
宮内庁からのこの御歌(みうた)に対するコメントには「春深いバーミアンの野に、今はもう石像のお姿がない。人間の中にひそむ憎しみや不寛容の表れとして仏像が破壊されたとすれば、しらずしらず自分もまた一つの弾(たま)を撃っていたのではないだろうか、という悲しみと怖れの気持ちをお詠みになった御歌」とある。
行き届いた解説であるが、今となってはこの歌の背景には説明が必要だろう。

アフガニスタンの首都カブールから西北西へ120㌔ほど行くと、バーミアンと呼ばれる峡谷があり、1世紀ごろから作られたという千窟もの石窟仏教遺跡があった。20世紀に入って、そのおびただしい仏像彫刻や仏教美術が、一躍世界の注目を集めることになった。特に偶像崇拝を否定するイスラム教徒によって顔を剥(そ)がれた大仏などは、写真を通じて世界にもよく知られていた。
昭和46(1971)年、時の皇太子皇太子妃は、はじめてアフガニスタンを訪問された。
カブールだけでなく、三日間の地方の旅にも出かけ、かつてジンギスカンが孫を殺されたことを怒り、人々を皆殺しにしたという〈幽霊の町〉シャーリ・ゴルゴラの丘にも登られたりもしたが、バーミアン訪問は大切な目的地であっただろう。

バーミアンの月ほのあかく石仏(せきぶつ)は
御貌(みかほ)削(そ)がれて立ち給ひたり     皇太子妃(昭和46年)

この歌が入った歌集「瀬音」のあとがきには元女官長松村淑子が「このバーミアンで、両陛下は丘の上のテント(パオ)にお泊りになったのですが、この夜バーミアンの村人たちは、美しい星空を両陛下にお見せしたいと、一時(いっとき)、住居の明かりを一斉に消してくれたのでした。河鹿(かじか)の声のしきる、美しい一夜でございました」と記している。
「バーミアンの月」のもと、異教徒たちに顔を削がれながらも、しかし今も悠然と立っておられる大仏の姿に美智子さまは尊厳と慈悲の思いを深くされたのかもしれない。
そんな30年前の大切な記憶を持っておられた美智子さまに、平成13(2001)年の、タリバンによる大仏の爆破は、殊のほか強い衝撃を与えたことだろう。
1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻、96年にはアフガニスタンタリバンによって占領されることになった。そして2001年2月末に、タリバンイスラム偶像崇拝禁止に反するとしてバーミアン石仏の破壊を宣言したのである。
国連をはじめ、各国は一斉にそれに反対したが、タリバンは3月12日、西大仏、東大仏の二つの大仏を破壊してしまった。さらにその破壊の映像が世界に流され、大きな衝撃を与えることになった。美智子さまの御歌は3月、その事件直後に詠まれたものと思われる。

タリバンを批判することはたやすい。しかし一方で自分たちはアフガニスタンの民のために何をしてきたのだろう。アフガンでは何万人とも何十万人ともいわれる、多くの子どもを含めた人々が、飢えに苦しみ、そのために命を落としている。世界はそれに対して、決して十分な援助をなしてきたとは言えない。仏像破壊ばかりに世界は騒いでいるが、その破壊に手を貸しているのは、ひとりひとりの〈無関心〉ではなかったのかと、ひそかに自問されているのが、美智子皇后の一首ではなかっただろうかとも、私には思われるのである。

歌人・細胞生学者の永田和宏さん(平成30年10月15日地元紙「象徴のうた 平成という時代」より)