朴念仁の戯言

弁膜症を経て

納屋にこもった老人

 人生の意味

「ずっと納屋に閉じこもっている弟がいるんだ」
宮古島のサトウキビ農家の、腰痛で歩けないため訪問診療していた千代さんの夫から相談を受けた。
宮古島の大抵の農家には前庭に大きな納屋がある。
弟の長英さんは69歳、終戦の5年後の20歳ごろから様子がおかしくなり、昼間は納屋にいて深夜出てくるのだという。
食事は兄夫婦が何十年もの間差し入れているが、このところほとんど食べなくなったとのこと。

納屋の引き戸は内側につっかい棒が掛かり、動かない。
小さな節目の穴から中を覗くと、穴のすぐ向こうに黄ばんだ眼玉があった。
俺は驚いて尻もちをついた。
「長英さん、医者が来たよ。どうしてご飯を食べないのか。診せてください」
古い木戸をノックしたが、返事はなかった。

もう何十年も家族以外と会ったことがないとのことだった。
俺は、毎日訪問して声を掛けることにした。
五日目、なぜかすんなり木戸を開けてくれた。
電灯のない暗黒の中、長英さんはコンクリートの床に座っていた。
木戸の隙間から差し込む太陽の薄明かりを頼りに様子を観察した。
全裸で、下着すら着ていない。
全身に黄疸があり、陰嚢(いんのう)が小さなスイカくらいに腫れていた。
かつての風土病フィラリアの後遺症だろう。
宮古の古い方言しか話せず、意思疎通は難しかった。
痛みはないらしく、熱もなかった。
長英さんは病院へ行くのも採血も拒否した。
当時の小型エコー装置にはバッテリーがなく、電源の取れない納屋で黄疸の検査はできなかった。
放置するわけにもいかず、その後も訪問を続けた。

日の出前、他の患者さんから往診に呼ばれ、長英さんの家の前を通り掛かった。
キビ刈り後で見晴らしが良くなった畑でたき火をする人影があった。
肥料を入れる頑丈なビニール袋に頭と腕を通してかぶっているのは、紛れもない長英さんだった。
車を寄せて声を掛けようとすると、彼は信じられないような速さで駆けて納屋にこもった。
物音に気が付いたお兄さんが、たき火を消しに出てきて、申し訳なさそうに言った。
「朝からすみませんね。あれが考えていることは分からんから」

二カ月後、長英さんは急速に衰弱して動けなくなっていた。
本人の意思は確認できず、親戚家族の誰もが、一切の医療を希望しなかった。
俺はただ見守り、死亡診断しただけだった。
彼が生きたことにどんな意味があるのか、分からなかった。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年5月12日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より)