朴念仁の戯言

弁膜症を経て

大きく開いた目

独りで逝った人

診察室に、死んだ獣のような臭いが漂っていた。
診療ベッドにうずくまって背中を丸めていた女性が振り返った。
「飯田さんですね。担当の泰川と言います」
彼女は脂気のない黒髪の中からギラギラした大きな目をのぞかせて、真っ直ぐに俺を見た。
「ああ、よろしくね。この痛いの、何とかしてよ」
東京・新宿の東京女子医大病院で半年以上研修医をしていたが、こんな愛嬌のない女性は初めてだった。
飯田さんは左右両側の乳がんで、左側には異臭を放つクレーター状の潰瘍があった。
1990年当時、乳がん治療はまだ手探りだった。
飯田さんは言いたい放題で、病院スタッフの話はあまり理解してくれなかった。
同じ部屋の女性たちとも打ち解けなかった。
46歳独身、家族も友人もいないという。
仕事は何をしているのか分からなかった。
誰も相手にしない彼女の話を、俺は一生懸命聞いた。
手術で両側乳房と、浸潤した皮膚、リンパ節など大きな範囲を切除した。
抜糸の頃には痛みを訴えなくなっていたが、肝臓と肺、骨への転移が問題だった。
「木村先生と、あんたは信用してもいい。他のやつは、駄目だ」
飯田さんは、他の患者さんと差別せず、真っ直ぐ目を見て話す乳腺班長の木村講師に対してだけは敬語を使った。
木村講師の勧めで、当時の最新の化学療法を受けたが、効果は一時的だった。
化学療法の休薬期間に、飯田さんが苦しんでいると連絡が入った。
吐き気が強く、半日は尿が出ていない。
骨転移による高カルシウム血症だった。
大量点滴、ステロイド剤、カルシウムを下げるホルモン剤の投与で改善したが、その後、何度も同じ症状に苦しんだ。
化学療法が再開されると副作用に苦しめられた。
彼女は目に見えて衰弱していったが、それでも「あんたたちを信用している」と言った。
ある週末、彼女が突然の腹痛を訴えた。
胃潰瘍穿孔(せんこう)による腹膜炎で、手術しなければ数時間で死に至る。
ゴルフ中の木村講師が飛んできた。
初めて見る木村講師の胃切除手術は鮮やかだった。
飯田さんは腹膜炎を乗り切ったが、もう化学療法を続けるのは無理だった。
数カ月後に肺転移による呼吸不全に陥り、最後は大きく開いた目を俺に向けて呼吸停止した。
親戚も知人も、誰一人病院に来なかった。
彼女が人生をどう思って逝ったのか、俺には分からなかった。

※医療法人鳥伝白川会理事長の泰川恵吾さん(平成28年年4月7日地元紙掲載「生きること死ぬこと」より)