朴念仁の戯言

弁膜症を経て

からだの声に耳傾けて

年を重ねて あきらめ上手に

親しい付き合いの人たちが、このところ続いて大病をしている。仕事が忙しすぎたとか、長年の連れ合いの介護で、自分のからだを顧みる暇がなかったために病気の発見が遅れた人もいる。気にかかっているが何もできない。
みんな60代から70代で、そろそろ病気が出てくる年齢なのだろうか。
中には、普段から飲みすぎに注意していたのに病気になってしまった人もいる。「だから気をつけなさいって言っていたのに、これからは自重してよ」などと、本人が一番そう思っているに違いないのに、余計なことを言ってしまったり、とにかく、身辺に病気の人が多いと気持ちが晴れない。
90歳を過ぎた私が元気でいるのが、申し訳ない気持ちになったりもする。病気を機に、これから体力の限界よりも少し早めに、力を抜いて生きてほしいと願うばかりだ。

亡くなった上坂冬子さんと、健康管理について話をしていた時、こんな話をされたことを思い出す。まだ私の夫が生きていた頃のことだが、「あなたは、そばに止めてくれる人がいるから、極限まで無理することがないのよ。私のような一人ものは、仕事となれば少しくらい体調がおかしくても、起き上がれれば無理しても出かけてしまう。顔色を見て適当に止めてくれる人がいるのといないのとの違いです」
今は私も一人ものだ。止めてくれる人もいないが、からだの方が「これ以上は動けないよ」とでもいうように動かない。そのからだの声に耳を傾けて生きている。限度を超えないのは、年を重ねて身に付いた知恵のせいでもある。今の自分の手に余るものは本能的に避ける、あきらめ上手になっているからだと思う。
私は犬が好きで、道を歩いていても散歩の犬に出合うと、つい顔が笑ってきてしまう。本当は好きな柴犬を飼いたい。30代の頃に、生まれて1カ月くらいの柴犬をもらって、10年いっしょに暮した。毎日散歩をさせるとき、喜んで走りたがる犬の革紐を引っ張る力が、今も私の手に感触として残っている。元気いっぱいの犬とともに歩ける体力がない。それでは飼い主としての責任が果たせないから、あきらめなければならないと思う。
好きなことは、けっしてあきらめずに続けていく、それがしあわせな生き方だと、かたく信じてきたけれど、あきらめが肝心という言葉にすなおに従うこともできるようになってきた。年をとるって本当に面白い。
※生活評論家の吉沢久子さん(平成21年12月4日地元紙掲載)