朴念仁の戯言

弁膜症を経て

大衆演劇を守り続けた堅物

◆厳格な父
父清は、私が紅白歌合戦に出場した年の1983(昭和58)年6月に亡くなった。75歳だった。紅白のシーンは見せられなかったが、劇団の公演が超満員御礼になる姿は見せられたと思う。
大衆演劇全盛期の昭和初期、父は剣劇の大スター市川梅三郎として全国に名をはせた。
母龍千代との見合いの時、仲介者が「龍千代と一緒になるんだったら、この銭箱をつけてやるよ」と大きな銭箱を見せると、父は「私も天下の市川梅三郎。芸は売っても心は売りません」と、金の受け取りを断ったという。
そして、結婚に反対する人から「剣劇なんかでこの娘を幸せにできるのか」と問い詰められた時には「幸せなんて、一緒になって力を合わせて暮らしてみて、初めて言えることじゃないですか。今、幸せにするとは言えません」と答えたという。母も、その通りだと思ったと話していた。
私が15歳で入団した時、座長は兄武生が継いでいたので、父から芝居を教えられた記憶はあまりない。もっとも、口数が少なく「芝居は見て覚えろ」が信条の人だったので当然のことだ。
父は極めて厳格な家庭に育った。役者にしては堅物で「なぜ役者になったんだろう」と、誰もが首をかしげる人だった。
ある地方のお祭り公演に行った時だった。役者は人気者なので、若い女の子が寄ってくる。そして、その女の子たちと夜遊びをして帰ると、父は「いい加減なことをするな!」と、嫌というほど私をひっぱたいた。だから父の前では猥談など絶対に口にはできなかった。
母の手記によると、父は少なくとも5回、出征している。5回もである。「万歳!」で見送られることもなく、いずれもひっそりと出て行き、帰って来ると芝居に打ち込む繰り返しだったという。さすがに母は「本当に戦争に行ってるんだろうか。ほかに女がいるんじゃないだろうか」と、不安に思った時もあったという。
2回目の出征の時は、公演先に赤紙が届き、なんと父は着流しで出て行ったそうだ。ほかに、何度目の出征の時かは不明だが、出征する当日、母が父の代役で国定忠治の舞台に上がり、兄の武生をおんぶしているシーンの時、父は客席の一番後ろに立ち、母に敬礼をして出て行ったという。
私は、父が国のために働いたのは事実だと思う。戦争の話はこれっぽっちもしなかった父だが、「あの戦争は間違っていたね」とだけは話していた。
父は「男だったら何をやってもいい」と言った。ただ「国がしては駄目だと定めた悪いことだけは絶対にするな」とも語っていた。そして「親孝行をしろとは言わないが、自分が親孝行したいんだったら思い切りやりなさい。それと兄弟を大事にしなさい。自分が困った時に役に立つのは兄弟だからな」と話していたのも、はっきりと覚えている。
「芸人は極道なんだから、親の死に目には絶対会えないぞ。お前らも覚悟しておけ」。そう語っていた父は、最期は母と子どもたち全員にみとられて逝った。
母は「大衆演劇の灯(あか)りを守り続けた人」と父を語っている。私も、そう思っている。
大衆演劇役者の梅沢冨美男さん(平成21年11月20日地元紙掲載)