朴念仁の戯言

弁膜症を経て

検査入院初日

平成17年11月7日、晴れ、風強し。

この日、市内の総合病院に入院した。

入院部屋は病棟6階の8人部屋で入口側をあてがわれた。

ざっと見わたすと、一人分が空いて、50代以上の患者が5人と、隣は仕切りカーテンが掛かって顔は見えないが、見舞客との会話から察すると40代位だろうか、バイク事故で怪我をしたようだ。

それが痛むのだろう、うんうんと辛そうに唸っている。

生活備品の収納を終え、担当の看護師に診療計画を求めたが、前日になって検査項目が分かるらしく、先々までは分からないとのこと。

今日は午後からエコー検査と心電図の検査があるらしい。

「尿は午後から一週間分貯めておいてください」

看護師はそう言って部屋を出ていった。

大半の病院食は不味いものと思っていたが、その日初めて口にした昼食はまずまずだった。

昼食後、時間潰しに持ち込んだ本を三冊、ぱらぱらと捲って読んでみたが、早くも身中の退屈の虫が、もぞもぞと這い出てきた。

「屋外を散歩してもいいですか?」

担当の看護師を捕まえて訊いた。

それは遠慮してください、と、微笑みを浮かべながら、子どもに教え諭すようにしてその看護師は答えた。

午後になって、母、妹が私の身の回りの確認に来てくれた。

その頃、母方の伯母もこの病院に入院していた。

母は、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように、伯母と私の部屋を行ったり来たりと忙しなく動いた。どうかして母が参ってしまいそうで気になった。

母の口から、伯母は微熱状態にあることを知った。

夕食後、私の女が仕事帰りに部屋に立ち寄った。

彼女にとってこの日は、新しい職場での仕事始めで、それは知的障害者の介護という、未知の、難しい業務だった。彼女との短い会話で、彼女のあっけらかんとした変わらぬ態度に、なぜか救われたような気分になった。

午後八時頃、看護師が検温と血圧測定にきた。

看護師は、私と同じ姓のよしみから出身地を訊ねてきた。

美しさと愛しさの物差しで彼女を見た場合、美しいの部類に入るのだろう、彼女は隣町の出と言った。

血圧を測る前に弁膜症の話が出た。

高齢者の手術が多く、まだ若く体力のあるうちに手術したほうが良いとか。

人工弁を取り付けるのが主流で置換手術が多いとも。

人工弁でも機械弁になれば一生ワーファリンを飲み続けなければならない、そんな程度の知識はネットから得ていたが、豚や牛の弁を使った生体弁を埋め込んだ患者でも、その多くがワーファリンを飲み続けていると彼女は言った。

「人工物を埋め込まない形成術を望んでいるんですが」

と言うと、彼女は、

「ここでは余りやっていないんです」

と、言下に形成術が珍しいことを匂わせた。

場合によっては機械弁ということも予期していたが、いよいよその場合によるかもしれない、と思わされた。

人工弁を埋め込んで命を繋ぎ、制約されて生きるよりも、今までと変わらぬ生活ができるのであれば短くとも短いなりに納得いく人生を生き抜きたい、その頃はそう考えていた。

死に対して、その時までは他人事のように構えていたが、そのはざまに立たされて、

〈今後の生き方はいかに?〉

この問いが、剣先鋭い槍となって胸元に突き付けられ、進退窮まった。

検査の結果、医師の言葉に、果たしてうろたえない自分がいるかどうか。

この歳になってまで母に心配かけることが悲しい。

これでは一生母に心配かけ通しではないか。

 

 自己映し 愛しき涙 こぼれ落つ

        入院で知る 死への慄き