朴念仁の戯言

弁膜症を経て

答えてもらえない悲しみ

随想「対話できる社会、そして優しさ」

人間は人々との対話の中に生きているのだとつくづく思う。今、失業者も就職活動をする若者たちも深い悲しみや絶望の中で「なぜ私たちは社会から必要とされていないのか?」と問い、その答えを待っているのではないだろうか。同じ人間として、なぜ仲間から排除されるのか、納得できないのではないだろうか。
会社が好況のときにためこんだ利益や高額な役員報酬がどうなったのか、そのゆくえを答えてくれる人もいない。解雇された後、どうやって生きていけばいいか答えてくれる人もいない。答えてもらえない悲しみが今、日本社会を覆っている。
東西ドイツが統一されたとき、とくに東ドイツでは失業者があふれた。当時のことを私は思い出す。激変の中にもそこには答えてくれる社会、対話できる社会があった。
あるアパートで、以前は元気に通勤していた人が、最近、部屋にこもりきりであることに気づいた主婦が「もしかしてあの人は失業したのではないかしら」と心配して、それとなく「スープをつくりすぎたので」とわが子に持っていかせたり、ハイキングに「荷物持ちが必要だから」と誘ったり、もしコンピューターを勉強したければ自分の家に来るように、と勧めたりしていた。
それは実に自然で、家族のひとりに対する配慮、という感じだった。「おせっかいでは」とか、そのうち付き合いが負担になるかも、などと気を回して、結局何もしない私とは全く違っていた。ほうっておけば、アルコール依存症うつ病になり、自殺を考えるかもしれないじゃない? と彼女は心配したという。
同様な問題を抱えた失業者が増えていることが社会的な話題になると、さっそく市民たちは500円ぐらいのお金を出し合って基金をつくり、あっという間に全国失業者連盟ができてしまったのである。
もちろん、失業した当事者たちも呼びかけあって、集会を開いたり、政府や自治体と新しい仕事をつくる交渉をした。例えば、町で残したい歴史ある建物を修理する仕事、青少年が気軽に集まれる場所や相談所をつくる仕事、老人向けの有機野菜の食堂の経営、不用品の交換所で雇用を新しくつくる、などである。
労働組合の対応も早く、自分たちの建物を失業者にただで使えるようにして、失業者が会議を開いたり印刷機でビラをつくったりする手助けをした。自分の会社を解雇された労働者を招いて、定期的に相談にも乗っていた。
あるとき労組の部屋を借りて会議を開いている失業者の会に出席させてもらったが、組合員が彼らのためのコーヒーやクッキーも用意していて、心が和んだ。自治体は職業探しをする失業者のために半額パスを支給し、支援する民間非営利団体のためには事務所代とそこで働く人の人件費を助成した。「ここでは誰かが助けてといえば、必ず支えがある社会です。見捨てられることはない」との失業者の言葉を私はうらやましく聞いた。
人々と対話し、答えてくれる社会の中で、失業者は「企業が生き残るためには仕方がない」犠牲者でもなく「関係のない人」でもなかった。不十分であっても人々は助け合う「同じ人間」だったのだ。

(生活経済学者の暉峻淑子てるおかいつこさん)平成21年1月11日地元朝刊掲載

 

炎の記憶乗り越えて

『歩み来て、未来へ1』出兵と抑留

シベリアで死者の歌に出合った。
生きてて良かったね/わたしみたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと…
1919年3月22日。ロシア革命後の内戦に乗じた「シベリア出兵」で極東支配を狙った旧日本軍は、革命政権側パルチザンの拠点とみたアムール州イワノフカ村を焼き払った。
犠牲者は無力な村民だった。村の記憶で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。作詞作曲不詳の「炎のイワノフカ」は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。
教師ガリーナ・コロスクツェワ(61)は父母から目撃談を聞いて育った。「女も子どもも銃剣でとどめを刺された。教会だけ焼け残り、死体が散乱していたそうです」
コロスクツェワは最近、郷土史家らが教会の埋葬記録や聞き取り調査でつくった犠牲者名簿に祖父の名がないことに気づき、追加を申請した。事件は終わっていない。
毎年、悲劇の日に、村人は総出でろうそくをともし慰霊碑を訪れる。炎の記憶が世代を超えて受け継がれてきた。
■和解
94年、一人の日本人が訪れた。元抑留者の慰霊碑を建てようと埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会会長の斎藤六郎。「日本人の墓はありませんか」「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」
斎藤とこんな会話をした村長のゲオルギー・ウス(84)は今も現役だ。「抑留と出兵の犠牲者をともに慰める日ロ合同の碑を提案したのは斎藤さんだった。恨みは忘れようと思った」
観音像のレリーフを埋め込み、ギリシャ正教の十字架を頂く白い慰霊碑が村にできたのは翌95年7月。近くに日本人兵士が眠る。費用は元抑留者の募金で賄った。12月、斎藤は役割を終えたように72歳で急逝する。
除幕式で読経した僧の横山周導(84)も元抑留者だ。毎夏、ロシア墓参団を組織、2008年8月、14回目のイワノフカ訪問を果たした。「誰かが毎年、お参りしなきゃいかんが、ワシはいつまで来られるか…」。墓参団を日ロ友好の民間非営利団体NPO)に変えた。20代の若い女性も加わり、村の少年合唱団との交流についても話し合えるようになった。
■執念
初めて参加した荻野和代(65)は、抑留中に死んだ父の笹谷隆次郎を知らない。母が元気なうちにと墓参を願っても埋葬地が不明だった。
1991年、ゴルバチョフソ連大統領が持参した名簿に「ササタニ・タカビロ」の名を見たが、埋葬地は分からなかった。2006年、元抑留者の村山常雄(82)が独力で編んだ名簿で、中ロ国境に近いブラゴベシチェンスクの「中央病院墓地」に父が眠ることを知る。
村山は70歳でパソコンを覚え、日ロの資料を調べ、漢字の名簿を初めて作った。老兵士の執念が父の居場所をつかんでいた。和代は村山の勧めで厚生省に問い合わせて、やっと個人記録の存在を知る。3年前にロシアから届いていたが、遺族に通知はまだなかった。
「タカビロ」が隆次郎になるまで15年の歳月がかかった。「個人にできて、なぜ国にできないのか」。和代には、わだかまりが残る。
明治維新に始まる日本の近代は、武士の仕事だった戦争に、普通の国民を引きずり込んだ。国家の運命と、農民や商人、その家族の運命が重なり、戦場は国民が国民を殺す場となった。繊維の町、大阪・船場のボンボンだった笹谷は40歳を目前に召集された。「病弱で重労働に耐えられなかったのでは」。遺骨もない空の木箱を前に母が泣いていたことを和代は覚えている。
■犠牲
墓地は訪れる人も絶え20年前に閉ざされたままだった。鉄の鍵をはずすと緑色の木戸が開き、和代と夫の源吾、娘の史枝(32)が、シラカバ林に吸い込まれた。野草が風に揺れ、墓碑もない地に手を合わせた。
史枝はその場から携帯電話で、病院の祖母に写真を送った。96歳の祖母は埋葬地判明で安心したのか転んで骨折、翌日が手術だった。
キンミズヒキの種が史枝にまとわりついた。「おじいちゃんを連れて帰ろう」。そう思った。
広大な大豆畑の向こうで、もう一つの歌が墓参団を待っていた。ユウヤケコヤケデヒガコレテ…。ラズドリノエ村のパーベル・シドレンコ(77)は、夕焼け小焼けの歌を「アリタサン」に習った。子を日本に残した抑留兵士は、シドレンコの家で揺りかごの赤子を見ていた。
シベリア出兵は膨大な犠牲を伴い失敗したが、日本はさらに戦争への道を進んだ。非道なシベリア抑留はその先にあった。イワノフカの惨劇から90年。国家が忘れた無名の人々を、歴史と記憶に刻み、和平を未来につなぐ営みがある。

(松島芳彦さん)平成21年1月10日地元朝刊掲載

 

あの苦難あってこそ

『逆風に挑む ふくしまの技7 ものづくり脈々』大手に一矢報いる

創業からちょうど20年目の今年。東洋システム(いわき市)社長の庄司秀樹(47)は新年あいさつで県内外を飛び回りながら時々、忘れようにも忘れられないあの事件を思い出していた。
      ■        ■
「…もう一度言ってくれませんか」。庄司は耳を疑い、電話の受話器をぎゅっと握りしめた。「だから、あなたの会社の設計図そのままに、大手メーカーに同じ装置を作らせようとしているんだ」。周囲をはばかる様子でヒソヒソと話す男の声に、体がぶるぶると震えた。
創業5年目の平成5年の冬。中国で開催された電池学会に出品した装置が高い評価を受け、経営が軌道に乗り始めた矢先のことだった。
「300万円の装置を100台注文したい」。会社を訪ねてきた大手メーカーの男の言葉に、庄司の心は躍った。「素晴らしい技術だ。詳細を教えてほしい」。どこか人を見下した態度だったが、有名企業の技術者にほめられて悪い気持ちはしない。性善説を信じる庄司は何の疑いもなく、積み上げてきた技術のすべてを公開した。
だが、肝心の発注書がいつになっても届かない。あの男に何度電話しても、つながらない。「何かおかしい」。男と一緒にいた別の技術者に電話をし、その予感が正しかったことを知らされた。「小さな会社は信用できないっていうが、ウチだって最初はそうだったのに」。会社の方針に憤る技術者の気持ちはありがたかったが、「名の通った企業がここまでするのか」と茫然(ぼうぜん)とするしかなかった。
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それから一年が過ぎ、大手二社が装置の販売を始めた。だが、庄司はまさにこのときを狙っていた。大手がカタログをつくり、受注を開始するタイミングを待ち、半分の値段で倍の性能を持つ新製品を投入する。庄司の技術者の意地とプライドをかけた作戦だった。
こうして会社の存続を揺るがした事件は、庄司の圧倒的な勝利に終わった。「このままでは終われない。負けてたまるか」。その一心だったが、結果として会社の技術力向上という成果をもたらした。「あの苦難があってこそ」。今はそう受け止めている。

平成21年1月9日地元朝刊掲載

 

お多福のわが母

今日は母の誕生日。
母に関する切り抜きを載せてみた。
※以下、「情(こころ)を育(はぐく)む」(親子で読みたい教育の話)より一部引用。

話は変わりますが、以前、高校生が国語の授業で綴った一行詩「父よ母よ」が評判になりました。
○母よ! あなたは嫌味の百科事典だ。
○母よ! 金、カネ、かね、現実的なことばかり言ってんじゃねえ。
○母よ! あなたは私の監視人形ですか。
○母よ! 言いたいことをそのまま言うなよ。

いかがでしょう。苦笑するお母さんもいることでしょう。
そこで思い出すのは「お多福」の面です。細い目、大きい耳朶とふくよかな頬、鼻の低いユーモラスなお多福の顔は、実は、「母」として、こうありたいという五つの願いを、誰にも分かるように「五徳の美人」として表現した顔なのだそうです。その「五徳」とは?

第一は「目」…憎しみの目ではなく、慈愛の目
第二は「耳」…子供の声なき声を聞き取ることのできる耳
第三は「頬」…なんでも優しく包みこんでくれる頬
第四は「口」…責める尖った口ではなく、喜びの言葉が出てくる口
第五は「鼻」…自己中心の高慢な鼻ではなく、謙虚なつつしみの鼻

子供達も、このような徳を備えたお母さんを求めているに違いありません。
「賢母を最も多く有する国が世界の最大強国なり」という言葉があります。私の知る限り、かつての日本は世界一多くの賢母を有する国でした。はたして今の日本はどうなのでしょうか。

十億の人に十億の母あらむも わが母にまさる母ありなむや(真宗の高僧 暁烏 敏あけがらすはや

(土屋秀宇さん)平成22年1月26日地元朝刊掲載

 

命懸け 貫き通した愛

『地球人間模様 @LOVE』駆け落ち(アフガニスタン

部屋を出る時、父は何も言わなかった。そっと屋根に上ると、月明かりの中、村外れの丘に懐中電灯の白い光があった。今だ。屋根を下りて夢中で光に向かって走った。
懐中電灯を手に暗闇の中に立っていた彼に夢中で言った。「最後まで一緒に逃げると約束して」
「約束するよ」。走りだすと彼が手を差し出した。大きくて温かい、初めて握る男の人の手。この人の妻になる。アフガニスタンの厳しい冬が終わった春先、生まれた村を初めて出た。
アフガン中部のバーミヤン州アジダール渓谷。泥壁で囲った二間ほどの借家でカマルニサ(20)は夫アブドル・ハミド(24)と暮らしている。「日ごとに彼のことがますます好きになるの」。夫から結婚の際にもらった六輪の金の腕輪をしたカマルニサは少し照れるつつも、誇らしげに言った。
▶道ならぬ恋
二人の命懸けの「駆け落ち」成功の話は、町中に知れ渡っている。アフガンでは、血縁関係者の中から両親が選んだ相手と結婚するのが通例だ。それ以外の恋愛は、ふしだらな「道ならぬ恋」。だから時折、いちずな男女は駆け落ちを選ぶ。捕まれば「一家の名誉を汚した」と家族から殺されることも多い。イスラム教では本来、宗教指導者の前で愛を誓えば結婚は成立することになっているが、現実は因習に縛られている。
二人の出会いは三年前。徒歩で三時間の村から農作業の手伝いに来たハミドは、茶や食事を運んでいたカマルニサに一目ぼれした。「初めて会ったとき、互いにほほ笑んだの」とカマルニサ。
そのころの彼女は、父の暴力におびえる日々を送っていた。ささいなことで殴られる。母が死んでから暴力はひどくなり、継母が来るとさらに激しくなった。「いつか、誰か、わたしを救ってください」。そう祈りながら暮らしていた。
ハミドは母に「彼女を妻にしたい」と打ち明けた。息子の必死の願いを聞いた母はカマルニサの父に会い、結婚を申し入れた。しかし、血縁関係のない男からの求婚にカマルニサの父は「ふしだらなことをしたに違いない」と激怒。カマルニサにも「お前のような娘には食べ物も着物もやらん」と怒りをぶつけた。
ハミドはそれでもあきらめなかった。カマルニサを一目でも見ようと何度も彼女の村をこっそりと訪れた。遠目に彼の姿を見るたびに、カマルニサの心もときめいた。
彼女は近所に住む友人の女性にハミドへの伝言を託した。「あなたが好き」。伝言は女性の友人に、友人はその友人に。メッセージはハミドに届いた。父に暴力を振るわれていることも伝わり、ハミドの胸は震えた。「彼女を守らなければ」
▶読書会の夜に
決行の日は間もなくやってきた。カマルニサが父にスコップの柄で頭を殴られ失神したのだ。家を出よう。もう一度、女性たちに彼への伝言を託した。「わたしを救い出して」
返事はすぐに来た。「コーランの読書会の夜、9時。村外れの丘で待つ」。「安全」なら白、「中止」の場合は赤の懐中電灯をかざす、と。
二人は一昼夜、山道を走り、ハミドの兄が住む町に着いた。出会ってから一年半がたっていた。
それでもまだ、カマルニサの父が追いかけてくるおそれがあった。見つかれば本当に父に殺されかねない。二人はバーミヤン州の知事ハビバに助けを求めた。知事は二人のいちずさに心を打たれ、「カマルニサの父を娘への暴行罪で懲らしめる」と公言した。案の定、父はやってきたが、知事の助けで二人に手出しはできなかった。
ハミドはそれでも安心できず、日本円で約25万円を借りて示談金として払った。公務員の年収二倍以上の額だ。そして自らも警察官となった。「彼女を愛している。全財産を投げ打っても彼女を守り、二人で暮らしたかった」とハミド。寄り添うカマルニサの目から涙がこぼれた。
「よくやった」。ハミドの家族は祝福したが、三日間続いた結婚披露宴にカマルニサの家族は一人も来なかった。だが、生まれた村の女性たちからは祝福の言葉が届いた。「おめでとう、お幸せにね」。寒さが緩み始めるころ、二人には子どもが生まれる。

痛み知る女性たち歓声
二人の話に地元の女性たちはほおを染め、歓声を上げる。「手を取り合って逃げたの? それが成功するなんて」。アフガニスタン女性のだれもが、今なお続く戦火と男性優位社会の中で痛みを分かち合っている。だからこそ二人の話に夢中になり、かっさいを送る。
タリバン政権崩壊後、カブールでは顔を覆わずに歩く女性も増えた。女子の学校も復活した。
しかし、女性を取り巻く環境はむしろ悪化していると地元の人権活動家は指摘する。
「耐えるだけだった女性が、少しずつ主張し始めたことに保守的な男性が反発、暴力に訴える例が増えている」。レイプ被害者の女性を家族が「名誉を汚した」と殺す例さえある。
一方で、愛した男性との思い出を支えに生きる女性もいる。カブールに住むファイマ(44)は13歳のときに、いとこで18歳のアブドゥルと結婚。「最初は結婚の意味も分からなかったけど、彼の心の広さを知るにつれ、深く愛するようになった」。夫の勧めで勉強を続け教師になり、働きながら4人の子どもを育てたが、夫は1990年代の内戦中、自宅に飛び込んだロケット弾で死んだ。
アフガンでは、夫を失った女性は再婚する例が圧倒的に多いが、ファイマは自分だけで子どもと夫の母を守ると決意、昼は教師、夜は裁縫の内職と必死に働いてきた。タリバン時代は秘密の場所で女生徒を教え続けた。
「母は僕の誇りです」。傍らで長男ショケル(17)が言った。

共同通信外信部の舟越美夏さん)平成21年1月7日地元朝刊掲載 

利益よりも教育優先

『ものづくり脈々5 逆風に挑むふくしまの技』家族は仕事の原点

「専門知識を持つ君が必要なんだ」。平成4年春、日大理工学部の男子学生を朝日ラバー(さいたま市)社長の伊藤巌は熱っぽく口説いた。今は会長となり74歳の伊藤は「社長業の三分の一は人材の発掘と育成」との信念を持つ。つてを頼って自ら大学に足を運び、人材獲得に走り回っていた。学生は伊藤の熱意に心を動かされ入社を決意した。この学生が後に主力商品である「アサ・カラーLED」開発の端緒をつかんだ技術グループ課長の市川明(39)だ。
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創業者の伊藤は本宮町(現本宮市)生まれで、安積高から日大工学部を卒業した。ゴム会社に入社し東京工場の営業で新規取引の実績を挙げた後、36歳で独立した。
幾つかの誓いを立てた。第一に掲げたのは「家族に迷惑を掛けない」。男が仕事をしていく上で、家族は安らぎであり原点。その家族を心配させることはあってはならない―という考えだ。この誓いは社員を大切にする社風をはぐくんだ。
例年、売り上げの10%は必ず社員研修費に回した。約20年前、利益が上がらず経費削減を進めるため、総務部が研修費を削減しようとしたことがあった。「なぜ社員を大事にしようとしないのか。利益より社員教育の方を優先しろ」。伊藤は声を荒らげ、減額を頑として許さなかった。
こんなこともあった。泉崎村にある福島工場の最寄り駅はJR 泉崎駅。駅に降り立った伊藤は構内にごみが散乱しているのに気づいた。「無人駅とはいえ、泉崎駅は福島工場の玄関口だろう」。伊藤の一言で毎週火曜日の朝7時半から一時間、福島工場と福島第二工場の社員約260人が5人ずつローテーションを組んで駅の清掃に当たるようになった。これは16年間続いている。
     ■              ■
伊藤は経営の一線を退いた今でも社員教育に情熱を傾ける。平成19年春からは、私財を投じて40歳代の社員二人を岩手大大学院博士課程に通わせている。「いずれは工学博士を5人育てたい」との思いからだ。
東北ポリマー懇話会の会長を務め、学会やセミナーに出席する日々。「経営とは人づくり。カネは二の次」。可能な限り工場に顔を出し、若手社員にアドバイスを送り続けている。

平成21年1月7日地元朝刊掲載

 

年初の便り

『水の透視画法21』こころばえと憂愁…

ことしの賀状はいつもの年とずいぶんちがって、気のせいか、文面や絵がらが重く沈んでいた。何通かはおきまりの祝詞を略して「暗中模索」だの「五里霧中」だの、およそ賀状らしからぬ文言でまえおきし、「めげずにがんばりましょう」などと、なにをどうがんばればよいものかさっぱり要領をえないまま文をむすんでいたりした。だれしも手ばなしで「おめでとう」とおもっておらず、眼(め)にはみえない不安の波動のわけをとらえようと過敏になっているようだ。かつてうたがう余地がなかったはずの日常のなめらかな連続性が、ここにきて不気味にきしみはじめていることは、たかが賀状の変調にもそこはかとなく知れる。
いつもなら「旧年の特筆私事トップ5」と「新春の決心」を細かな字でびっしりと書きおくってくる70歳代の女性の賀状が、ことしはおくれて着いた。文面も例年とまったくことなる。のっけから「轍鮒(てっぷ)の急にたちあがれ!」といかにも古めかしい檄文(げきぶん)調なので苦笑してしまう。「轍鮒の急」とは「荘子」にでてくることばで、わだちや水たまりにいる命あやういフナ。つまり、危急にひんする者のたとえで、この寒空に困窮する失業者たちをたすけるために行動せよ、とよびかけているのである。あいからず元気なことだと感心して読みすすむうち粛然としてすわりなおした。彼女、暮れから東京・日比谷公園年越し派遣村で「飯炊き、テント張り、救援物資の分類、配給、ゴミひろい」のボランティアをやっていたのだという。
「立ちっぱなしで一日目はヨロヨロ。けれど、だんだんつよくなりました。陽(ひ)が落ちるととても寒いのですが、私は〝お母さん〟と呼ばれながら、まわりに教えられて仕事をしています」。ことばに屈託がない。物心にまだ余裕のある私たちにたいし「たちあがれ!」と叫んでもとくにふくむところはなく、ストレートなぶん、かえって明るいのだ。彼女は殺された樺美智子さんらと60年安保をたたかったことがある。しかし、ふたたび水をえた魚というのではない。くさぐさおもったすえ私は得心する。世代、経歴、思想、立場をはねかえす一個人の凛(りん)とした〈こころばえ〉が、老いた彼女を派遣村にかよわせているのだ、と。ときに単純にもみえるよきこころばえのまえには、どんな華麗で精緻(せいち)な理屈もしぼんでしまう…そう自分にいいきかせたことだ。
この正月、印象深い便りがもうひとつあった。こちらは30代の新聞記者からのEメールで、赤さびのような疲労が文面にただよっていた。仕事をやめたいのだがやめられない。「暗やみに吸いこまれていくような孤独と虚無感」に日々おそわれている。つらいこと、疲れること、解決のむずかしいことを考えるのをうまく避け、自分に都合のよい相手とだけほどほどにつきあう毎日をおくっていたら「かつての理想がうそみたいにやせほそってしまった」という。社はこの不景気をしのぐために以前よりさらに権力や大企業、お茶の間になりふりかまわず媚(こ)びをうり、大事な記事をへらしてでも広告を入れようとしているけれども、異議をとなえる気力は社内にも自身にもないとなげく。
知的障害があるとみられる容疑者でも写真撮影できるよう便宜をはかれと警察にもとめているのは、読者ではなくじつは記者たちであり、社内でさして議論にもならない。自社のウェブサイトへのPV(アクセス量)が毎日、社内メールで流され、まるでPVを上げろとおいたてられているようだともいう。記者たちは社外でも社内でもまず「空気をよむ」のが本分のようになりつつあり、他者の苦しみをおもう「痛覚」が年々にぶっている…と恥じいる。「孤絶の感情がつのり、このところ自分の存在を脅かすほどになってしまいました」「人は生まれてから死ぬまで、孤独のやみに沈められているのですね。ふと足もとをみると、会社もまた孤独の底なし沼です」-。
青年は年末休みに妻子をおいて夜行列車でひとり旅にでた。雪の北陸路をさまよいあるくうち、孤独からのがれるのでなく、これからはいっそ孤独をもっとふかめてみようとおもいたったという。晦日(みそか)の夜に帰宅したら、産まれて間もないわが子が暗い寝床でじっと自分の小さな手にみいっていた。かれのこころはその情景にふるえ「痛覚が静かによみがえるのを感じて泣いた」のだそうだ。雪道、赤ちゃんの手、派遣村…が、私のまなうらでひとつらなりの絵になった。

(作家の辺見庸さん)平成21年1月9日地元朝刊掲載