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朴念仁の戯言

弁膜症を経て

青い炎

文学

『水の透視画法7』サテンの手とことばと

月に二、三度とはいえ、もう一年も家にきてもらっているというのに、この人にはいまひとつえたいの知れないものを感じてしまう。駅のむこうから1.5㌔ほどの道のりを、体操着姿の彼はバッグ片手にすたこらかけ足でくるらしい。私のところに着くや、まずうがいと手洗いをして、バッグから白い上下の施術衣をとりだして手ばやく着がえる。その間、息の乱れや足音、しわぶきなどの不規則な音をたてたことがない。動作のすべてが忍者のようにすばやく、なめらかである。そうなるとかえって油断がならず、こちらは硬くかまえてしまうが、それも知らぬ間に関節でもはずされていくようにほどかれて、やがてはまったくに無防備にゆるみきった一個の身体としてごろりと部屋に投げだされているのが常なのだ。
五十なかばだろうか。耳が大きく色白中高というだけで、どんな目鼻口をしているかどうもおぼえられない。意識が途中でいつもとぎれるのだ。だが声は、眼(め)を閉じたまま百人のなかからでも聞きわけられる。バイオリン属にたとえれば、アルト楽器のビオラにちかい。にこ毛のそよぎのようにやわらかく、いきなり尖(とが)るということがない。声の奥には、気づくか気づかないくらいに淡いにおいがひそんでいる。ラベンダーかなにかのサシェ(におい袋)でももち歩いているのだろうか。においの出所をせんさくする手前で睡魔におそわれるものだから、彼の正体とおなじくおぼろなままである。
左肩を下にして私はベッドによこたわる。彼は音もなく背後にまわり、私の右半身を中心に、もむというよりなでさすりはじめる。最初は無言である。使いこんだ本儒子(ほんじゅす)のような手のひらの感触に緊張はじきにほぐされて、最初の眠気がくる。手はやがて首と肩のつけ根あたりにゆっくりとはってきて、岩石さながらの凝りを、押しにじり押ししだきする。そのころからである、彼がそっとことばを発しはじめるのは。「ああ、おかわいそうに。痛くないですかあ。ああ、おかわいそうに…」。〈お気のどく〉とか〈かわいそうに〉とかいう哀れみのことばを私は好かない。いわずもがなの憐憫(れんびん)は空疎すぎてむっとしたりする。でも、彼の「おかわいそうに」には、手のひらという実質が添うているものだから、素直に弛緩(しかん)してしまう。
あるキリスト者にいわれたことがある。「街ですれちがうだれが神様か、じつは、わかったものではない」。うつぶせた背中にのしかかれながら、私は筋金入りの不信心者のくせに〈この人はひょっとしたら…〉などと考えてしまう。背後で彼はビオラ声でなにか問うているようだ。が、これにはいちいち応じる必要のないことを私は知っている。「セイエンなんてことばあったんですね…。青という字に〝ほのお〟って漢字のむずかしいほうの、焰(えん)…」「昔の人は書いてるんですね。〝青焰に揺れる大海原〟とか。どういう意味ですかねえ。わかんないけど、神秘的ですねえ」
私だって知らない。わからないまま、下から「う、う、う」と応諾ともうめきともつかない声をあげる。どうして「青焰」がなくなったのか、いや、自分が気づかないだけで、まだあるのか、せめて「青炎」でも普通にありゃいいのに、と彼はぶつぶつつぶやいている。「なんだかつまらない世の中ですねえ…。痛くないですかあ。ああ、おかわいそうに…」。また眠気がおとずれる。半透明の青い炎(ほむら)が幾本も水柱のように海原にたちのぼっているのが、まなうらにもうろうと見えてくる。
サテンの手が上肢をさすっている。私は半睡したまま宙に浮いている。水の底のように声は遠い。「どうして月とか火星とか、外側にばかりロケットを飛ばすんですかねえ。…人の内側にも探査ロケットを飛ばせばいいのにねえ…」。宇宙より人の内奥のほうが未踏なのに、といっているらしい。「〝心の闇〟などと気楽にいうけれど、ほんとうはだれも見ようとしちゃいない…」。そうささやいたのが彼なのか、私の心の声なのか、もうわからなくなる。気がつけば、彼も、彼によって語られたことばも失(う)せている。最初からなかったように。ラベンダーににたほのかなにおいの尾だけが、消えかかる記憶のように、脳裏をかすめている。
(作家の辺見庸さん)平成20年6月某日地元朝刊掲載