朴念仁の戯言

弁膜症を経て

こびなければいい

画家の堀文子さんが語る「老いの哲学」②

昨年、入院いたしまして。熱でうなされていたら死に神が見えました。テナガザルのようなのが私の背中にしがみついている。絵描きなもんですから、映像人間なんでしょうね。〝死〟が形になって現れる。おもしろいですね。
その状態に、だんだん慣れてくるんです。これはいけないと思いまして病院から逃げ出してまいりました。「死のリハーサル」をしたようなもので。それからどうも違う人間にね、細胞が入れ替わって生まれ変わったような気がします。
老いてまいりますと、自分の無能が耐え難くなってきますから。自分が崩壊していく音が聞こえてくる。その感じは若い人に「先生、頑張ってください」なんて言われて「はい」っていうような生易しいものじゃないんです。初体験なんですから。
死が怖かったのは50くらいのときでしたね。朝起きて「ああ、生きていた」と息をのむ。水平線まで永遠に続いていた生に塀が築かれたような。そんな恐怖が二年くらい続きました。
でもそれは、頭で考えている死だったんですね。今は違います。死がね、もう私の細胞の中に入り込んでいる。五割か、七割か。全部が占領されたときに、終わるんでしょうね。頭で考えた死と違う。暗くない。
老(おい)が身のあはれを誰に語らまし杖(つえ)を忘れて帰る夕暮
良寛が惻々(そくそく)とね、弱っていく自分を静かに受け入れて老いを生きるさまを詠んでいるのに、救われましたね。
夜もすがら草のいほりにわれをれば杉の葉しぬぎ霰(あられ)降るなり
何でもないんだけど、すぐそこにいる友だちみたいな親近感がわくじゃありませんか。でも死者なんです。われわれの知己(ちき)はみんな死者。この世に生まれて死ななかった者はいない。人類がこれまでに何百億人いたか分かりませんけど、そのすべてが死という道を通ったと思うと、荘厳ですね。
やまかげの岩間につたふ苔水(こけみず)のかすかにわれはすみわたるかも
良寛ほど澄み切った心境で生きるのは難しいですけど、近づくことはできますわね。こびなきゃいいんですから。私もせっかく生還いたしましたので、好きなことしてやろうと思って。
世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞわれはまされる
一人遊びですね、私も。

平成20年7月某日地元朝刊掲載