朴念仁の戯言

弁膜症を経て

コロナ禍における温もり

触れ合い 温かさに安らぐ

私たちは今、コロナ禍で、身体接触を避けるように促されている。

でも、子どもはもちろん、大人だって身体接触は大事だ。心細いときほど、温かくて柔らかい、息づくからだに触れたいと思う。人肌に触れることで、緊張は和らぎ、昂ぶっていた気持ちは落ち着く。

ある死刑囚と獄中結婚をした女性と、話をしたことがある。手紙のやりとりから始まり、面会を重ね、心が深く通じ合い、婚姻届けにサインをした。けれども「肌を重ねる」ことは許されない関係である。

獄中結婚のニュースは当時スキャンダラスにとりあげられた。どんな女性が結婚しようというのか。事件の被害者たちは命を絶たれ、遺族は今も苦しんでいるのに、加害者が結婚をする権利、ひいては幸せになる権利なんてあるのか。結婚とはそもそもなんなのか、そんなことも問われた。

当時のことを振り返る彼女の口から、新聞記事で知った「極悪非道の犯人」の名前、そのファーストネームが親しげに語られることに、面食らう。リアルであることの重みがそこから伝わる。

「一度も触れることはなかったんですか?」と、答えはほぼ明らかだが、確かめた。「ええ、一度も」

面会室の窓越しに手を重ね合うくらいはできても、手のひらの温かみを分け合うことはできなかった。そして相手は刑を執行され、もうこの世にはいない。

ただ、直接触れ合えなかったからこそ、魂により近いところで交流ができたのかもしれない。簡単に触れてしまえると、他の回路を開拓しようとしないから、つながりは刹那的なものにもなりがちだ。

もう触れることのできない人もいる。津波などで行方不明になってしまった家族。捨てられない遺品。においがまだ残っているその人の服に触れる。生きたその人に触れることができない分、強く抱きしめる。

精神科医・一橋大教授の宮地尚子さん(令和3年6月地元紙より)

 

変態親子

母を抱き寄せ、間寛平のギャグを真似て股間を押し付け、腰を上下させて「かいーの、かいーの」と声を上げる。

傍から見れば間違いなく変態親子。

母をギュッと抱きしめたい衝動をそのまま解き放つ。

これが私の、母との強引勝手なスキンシップ。

今の、この齢だからこそ恥ずかしげもなくできる。 

母の佇まい、何気ない仕種、そして心配故の叱言に、私の心は愛しさと切なさと有り難さが絵の具のように入り混じり、表現しようのない暖色系の幸福感に満ちた色彩で染められる。

母と食卓を囲むひと時に。

五十路過ぎの愚息のために毎朝4時から作り始める母手ずからの弁当に。

仕事から帰宅した私を包む、母のぬくもりある空間に。

母の居る日常のそこかしこで幸せ色が輝き放つ。

母を独り占めし、妹弟に申し訳なく思う。

母に触れられる幸せ。

母を感じられる喜び。

日常のそこかしこに零れている幸せを掬い上げ、今を、悔いなく生きる。

※朴念仁(宮地さんのエッセーを読み、思う)