朴念仁の戯言

弁膜症を経て

The Wheel of Life 6

第10章 蝶の謎⑵

収容所が解放され、門があけられたとき、ゴルタは怒りと悲しみのきわみで麻痺状態におちいっていた。せっかくの貴重な人生を憎しみの血へどを吐きながらすごすことが虚しく思えてきた。「ヒトラーと同じだわ」とゴルタがいった。「せっかく救われたいのちを、憎しみのたねをまきちらすことだけに使ったとしたら、わたしもヒトラーと変わらなくなる。憎しみの輪をひろげようとする哀れな犠牲者のひとりになるだけ。平和への道を探すためには、過去は過去へ返すしかないのよ」

マイデネックであたまに浮かんだ疑問のすべてにたいして、ゴルタはゴルタの流儀で答えてくれた。わたしはマイデネックにくるまで、人間の潜在的な狂暴性について、ほんとうにはわかっていなかった。だが、貨車に山積みされた赤ん坊の靴をながめ、微かなとばりのように空中に漂う死の異臭を嗅ぎさえすれば、人間がどれほど残虐になれるものかは容易にみてとれた。それにしても、あれほどの悲惨な経験をしながら憎しみを捨て、ゆるしと愛を選んだゴルタのことは、なんと説明すればいいのだろうか。

ゴルタはその疑問にこういって答えてくれた。「たったひとりでもいいから、憎しみと復讐に生きている人を愛と慈悲に生きる人に変えることができたら、わたしも生き残った甲斐があるというものよ」

わたしは了解し、来たときとは別人になってマイデネックをあとにした。人生を最初からいきなおすような気分だった。