朴念仁の戯言

弁膜症を経て

墓を参りて

先日、仕事で先人の墓地の管理状況を確認し、写真に収めることになった。

思い立ったら吉日と、よくよく天気の確認もせず、翌日の昼前後に出向くことに決めた。

その日、梅雨明けの酷暑に閉口しながら、この町の聖域の一つと言われる墓地を目指した。

駐車場に車を止め、そこから400㍍ほど高台にある墓地に向かって歩き始めた。

緩やかな坂を上り始めると、じわじわと汗が吹き出てきた。

墓地前の広場に着く頃にはポロシャツに汗の浸みが大きく広がっていた。

「線香の匂いがしない」

この地には何回も訪れているが、絶えず線香が焚かれ、白い煙が棚引いている筈のいつもの光景がこの日は見られなかった。

ここにもコロナの影響か。

そんなことを思いながら、数10基の墓石に向かってデジカメを構えた。

俗名の右側には戦死、または自刃の文字が刻まれている。

ぷぅーん。

羽音をさせながら藪蚊が寄って来た。

手早く撮影を済ませ、次の目的地に向かった。

 

ここの寺院には入り口まで来たことはあるが、山門を潜り、中に入るのは初めてだった。

本堂の脇に大きな供養碑が立っている。

幕末の殉難者200数十人のものだ。

その少し奥に、幼子から老齢者まで自害し果てた一族20数人の合葬墓が、日差しが樹々に遮られ、陰鬱な空気感が漂う山腹に異界の入口を示すかのように立っていた。

その更に奥には、武士から卑賤な立場に身を落とし、市中で無法に扱われていた戦死者の遺体を懇ろに弔った人物の、黒御影石に白文字で鮮やかに俗名が刻まれた墓が、故人の人柄を示すかのように毅然として立っていた。

この寺院と地続きの山腹には藩政時代の4,000体の遺体が眠っているとも言われる場所があり、ここにも初めて足を踏み入れた。

足場も悪い草藪の中、木漏れ日がスポットライトのようにほぼ無縁仏と化した墓群を、まるで野外ステージの一幕のように照らしていた。

 

次に向かったのは激戦となった町外れの場所。

この寺院にはテレビドラマでヒロインとなった役柄の父親の墓がある。

墓石の俗名の文字は風化して見づらいが、何とか読める。

旧街道の面影を残す風景に当時の戦いの場面を想像するには難しい。

だが、間違いなくこの周辺で未熟だった当時の、同民族による殺し合いがあったのだ。

 

次に町中へ移動し、二つの寺院を訪ねて撮影を終えた。

この周辺も当時は激戦となり、二つの寺院には1,000数百人の遺体が分かれて埋葬されている。

その一つの、寺院を囲む土塀には今も生々しくピンポン玉大の弾痕が残り、その痕を根城に泥蜂が数匹飛び回っていた。

 

昨日、盆前の先祖の墓掃除に、叔母夫婦と妹を車に乗せて隣町に向かった。

ひと雨来そうな空模様だったが、雨に当たることもなく、暑くもなく、草むしりは捗った。

10数基の墓石と水子供養の地蔵、灯篭、墓誌が立ち並ぶ。

風化して解読できない墓石が多い。

墓掃除の序でに叔母が準備してくれた花と団子を供え、皆で線香を手向けた。

胸の内で南無阿弥陀仏を数度唱えた。

帰り道、後部席から叔母と妹が「雨が降らなくて良かったね」「暑くなくて良かったね」と話す声に、墓掃除の責務を終えた解放感、高揚感が感じ取れた。

途切れのない叔母と妹の会話を耳にしながら、ハンドルを手に頭の中では別のことを考えていた。

 

年端も行かぬ我が子の喉元に懐剣を突き刺し、自害した母親。

横皺走るか細い喉元に懐剣を突き立て果てた老婆。

非道の行為を働いた新政府の元役人を追って帰郷の道中を襲い斬殺し、自刃し果てた旧藩士

戒名も俗名も解読できない風化した墓石。

草藪に溶け込み、自然の一部と化した墓石群。

 

実家の墓誌の余白にいずれ刻まれるであろう我が俗名と享年。

今生の 我が骨納め 絶家なるや

 

昭和20年(1945)8月6日午前8時15分、広島市に原爆投下。

同市当時の人口35万人(推定)に対し、死者数14万人(同年末までの推定)。

同年、本日の午前11時02分、長崎市に原爆投下。

同市当時の人口24万人(推定)に対し、死者数7万4千人(同年末までの推定)。

 

各時代における個々の人間の愚かな生き様は、長い年月をかけて修正を繰り返し、後世に想像を超えた驚くべき進化の世界を見せることだろう。

何も彼にもが無に帰すとも人の記憶にあり続ける限り。

それを伝え続ける人の存在がある限り 。