朴念仁の戯言

弁膜症を経て

金輪際

「もう金輪際あなたの顔は見たくない」
面と向かって言われた人は多くないかもしれない。
いや、もはや使われることがなくなった言葉かもしれない。
今なら「絶対に見たくない」「何があっても見たくない」と言うところか。

この「金輪際」、古いインドの世界観が元になっている。
世界の中心には須弥山(しゅみせん)と呼ばれる山が高くそびえている。
「蘇迷廬(そめいろ)山」と音写される場合もあるが、漢訳の仏典では「妙高山」と意訳して表わされることも多い。

須弥山の周囲には「四大州」と呼ばれる大陸があり、東から順に東弗婆提(とうほつばだい)、南
閻浮提(なんえんぶだい)、西瞿陀尼(さいくだに)、北欝単越(ほくうつたんおつ)と言われる。
インドは須弥山の南に位置する南閻浮提に相当する。

四大州を浮かべている大きな海の底にあるのが「金輪(こんりん)」で、言わば世界全体を支えている土台のようなものだ。
その金輪の最も深い部分が特に「金輪際」と呼ばれる。
世界の果てである。
ここから転じて物事の極みを意味するようになった。

昔の人が、日常の会話で「金輪際」という言葉を使っていたからと言って、いつでも世界の果てを意識していたとは限らない。
ただ、自分が立っている大地の底に思いを馳せる機会があったことは間違いない。
自分たちの生活を支えている世界を感覚する可能性はあったのである。

現代の私たちからすれば、平らな海に陸地が浮かんでいることや、それを支える土台があることなど、可笑しく思われる。
なぜなら、地球は丸いことをすでに知っているからである。
ただ、知ったことによって支えられているという感覚が乏しくなっているのではなかろうか。

現代人もまた、大地に支えられ、太陽に照らされ、雨に潤され、空気に恵まれて生きている。
一日に吸う空気は、2㍑入りのペットボトルで7,200本にもなるそうだ。
また、他の生き物の命をもらわないと一日たりとも生きてゆけない。
考えてみれば、自分の身一つですら自分の意のままにはならない。

人間の力で思い通りにできない世界があること、これだけは「金輪際」忘れてはならない。

※大谷大教授の一楽真さん(文藝春秋 平成23年8月号掲載)