朴念仁の戯言

弁膜症を経て

覚悟

最近の日本にはよく分からないことが多過ぎる。
酩酊会見の大臣もそうであるが、ものの考えに取り留めがなく、緊張感もなく、浮ついている。
この国の行く末が案じられる。
書店には「経済が、絆が、国が壊れていく。ついに覚悟を決める時が来た」という宣伝文句の新刊書が並んでいる。
だが、日本人が覚悟を決める時と言われると却って心配だ。
経済危機の昨今は内需拡大が叫ばれるが、かつては「贅沢は敵だ」「欲しがりません、勝つまでは」と一億総覚悟の時代があった。
その挙げ句、この国がどうなったかを忘れてはならない。

一般に「覚悟」と言えば、重大な決意や決心を意味する。
「決死の覚悟」と言えば勇ましいが、逆に「お覚悟召され」と言えば諦めの心持ちを示す。
しかしながら仏教でいう「覚悟」は、真理を悟る、真理に目覚めることを意味する。
覚も悟も同じくさとることだが、覚は不覚に、悟は迷に対して用いる。
『涅槃経』では、「仏とは、覚と名づく。既に自らに覚悟し、また能く他を覚す」と説いている。
覚悟を得た人を「仏」と尊称し、教主と仰ぎ、その教えに従うのが仏教徒である。

親鸞が「地獄は一定すみかぞかし」と覚悟したように、今の日本人は上滑りな繁栄に見切りをつける覚悟が必要という人がいる。
夏目漱石は「模倣と独立」という有名な講演で親鸞の肉食妻帯に言及し、「親鸞は非常にインデペンデント(独立、自立)の人といわなければならぬ。あれだけのことをするには初めからチャンとした、シッカリした根柢がある」と述べ、親鸞を「一方じゃ人間全体の代表者かも知れんが、一方では著しき自己の代表者である」と語っている。

そこで思うことは、我々が覚悟すべきは「独り来り独り去りて、一(ひとり)として随う者なけん」(『無量寿経』)ということである。
人間は本来一人ひとりが独立者でありながら、この世では絶対に独りでは生きられない。
生かされて生きているのが人間である。
覚悟、覚悟と力むよりも、いのちの真相に気づくことが大事である。

古歌に「おのが目の 力で見ると 思うなよ 月の光で 月を見るなり」とある通りであろう。

大谷大学の学長・木村宣彰さん(平成21年大谷大HP「生活の中の仏教用語」より)