朴念仁の戯言

弁膜症を経て

心の深淵に潜むもの

夏休みを一週間ほど取り、父の墓参りに三春町に帰省し、元気な95歳の母とゆっくり語り合う時間が持てた。猛暑が続こうが、集中豪雨に見舞われようが、人は自然の営みに対しては謙虚に受け入れ、嘆くことはしないというのが私の生き方だ。

かつて検察官を長く務め、さまざまな刑事事件に遭遇し、犯人の取り調べや裁判を担当してきたせいか、日々世の中に起こる「事件」が気になって仕方がない。

最近の事件で衝撃を受けたのは、山口県の人口20人足らずのある小さな集落で起きた連続殺人放火事件である。報道によれば、逮捕された犯人は関東地区で働いていた後、親の介護のために郷里の集落に戻ったが、両親が亡くなり独りで集落に住んでいた。男は周囲の住人と折り合いが悪く、自宅の窓には「つけびして煙り喜ぶ田舎者」と謎めいた俳句らしきものを書いた紙がはられていた。捜査が続いているので、まだ事件の全体像や動機などがつまびらかではないが、何が「殺意」の動機なのか、人間の心の奥に潜む闇の深さに戦慄を覚える。

若い検事のころに扱った父親殺しの殺人事件で、犯人の20代の息子は「自転車を買ってほしいと父に頼んだが断られ、恨んで殺した」と自供したので調書を作成した。上司から「この動機は正しいのか。他に理由があるんじゃないか」と指導を受けて調べ直したら、「実は、父から『おまえは本当は俺の子じゃないんだ』と言われたことにショックを受け殺しました」と自供した。上司は「これなら分かるね」と言った。

犯罪捜査をやっていていつも思ったことは「人の心は不可解」ということだった。検事を何年もやって経験を積むと人の心が読めるようになったと感じるが、一種の錯覚かもしれない。昔読んだ三浦綾子さんの小説のなかに「人と人との距離は星と星との間ほど遠い」という言葉があった。名言だと思った。要するに、人の心を簡単に他人が理解することなど不可能なのだ。

殺してやりたいと思うほど憎らしい人がいたとしても、ほとんどの人は、そう思うだけで実行に移すことはない。実行する人と、思いとどまる人との心の差はなんなのだろうか。あえていえば「心のブレーキ」がかけられるか、否かの違いなのだろう。それは、人格形成のための教育や教養だったり、独断や偏見から抜け出すための社会性だったりであるのかもしれない。

人間の心の問題という観点からして、近時、人間社会は極めて危険な方向に向かっていると思わざるを得ない。老いも若きも携帯、スマホを手にし、メールのやり取りに多くの時間を使い、人と直接触れ合う機会を極度に少なくしている。人は直接他人と触れ合うことで、ある時はぶつかり合い、あるいは意気投合し、切磋琢磨する中で、寛容とか忍耐などの怒りを減少、吸収する術を学んでいくのではないか。

※元名古屋高検検事長宗像紀夫さん(平成25年8月25日地元紙掲載)