朴念仁の戯言

弁膜症を経て

人間の生に対する執着知る

死刑―。教誨室と前室には死刑確定者の信仰に対応して仏教、キリスト教神道の祭壇を飾る。ここでは教誨師が説教、説話を行い、引導が渡される。
執行の日は朝、首席矯正処遇官が確定者にこれから死刑を執行することを告げる。この宣告に対しては恐怖のあまり茫然自失になる人、泣き叫んで命乞いする人、暴れて抵抗する人がほとんどで、淡々と受容する人はまずいない、ということだった。人間の生きたい、死にたくないという生に対する執着を思い知らされた。
一通り私たちに死刑確定者の当日の様子を説明した後、刑務官は死刑台のある一番奥の部屋のカーテンを開けた。自動車のサイドギアを10倍ぐらい大きくしたようなレバーを引くと、ガターンという音とともに床板が開き、ロープが宙に浮いた。床板が開くガターンという音は今でも耳に残っている。
私が見学した時、大阪拘置所には8人の死刑確定者がいた。死刑囚の居室は穴を掘っての逃亡を防ぐため2階にあった。便器、流し台、机、寝具などが置かれた3畳ほどの個室で、採光の窓は手が届かない高所にあった。
8人のうち、6人は会うことができるが、残り2人のうち1人は、死の恐怖からくる拘禁性ノイローゼが高じて取り乱しているので「惻隠の情があるじゃありませんか。願わくば会わないでほしい」とのことであった。そして、もう1人は重度の精神障害を装っているという理由だった。
刑事訴訟法では妊娠している女性と、重度の精神障害者には死刑が行えない。こうした事情を知って精神病を装っている死刑囚は、自分の排せつ物を壁に塗りつけているので、個室は悪臭に満ち、異様な光景だという。そして彼はその一部をためておいて、人が来るとそれを容赦なくぶつけるというのである。私たち教習生は、この2人に会うことを避けた。しかし、この話を聞いたとき、それまでして人は生きたいのだ、と私の心に戦慄が走った。
死刑囚は日常、午前11時までは非常に緊張している。というのは死刑の執行は午前10時から11時の間に死刑囚に告知されるからだ。そして11時には死刑場に連行され、正午までには執行を終了する。そのため告知を受ける11時を過ぎると、確定者の表情は一転して笑顔になり、今日一日生きられる喜びが全身からこぼれるという。
これに対して刑務所からいつ出られるか分からない無期懲役の受刑者は「飼い殺し」状態にあり、「生の実感」を知らずに半ば廃人化していく。
大阪での検察研修では、命の尊さをあらためて知り、刑の在り方についても考えさせられた。

1966(昭和41)年、東京弁護士会に登録して弁護士になった。修習生の時には裁判官にならないかという誘いがあったが。しかし、弁護士は父の期待であり、弁護士として社会貢献すると同時に、自分の力で、法律事務所を継続・発展させ、家計を支えるしかないと思っていた。
父は前にも話したが、「武士は食わねど高楊枝」というタイプ。学問や弁護士活動に打ち込み、依頼者開拓に腐心することは決してしなかった。私が修習生の時、母が栄養失調になったのも、こうした清貧にこだわる父の考え方が一因だった。

※奥野総合法律事務所長の奥野善彦さん(平成24年4月8日地元紙掲載)