朴念仁の戯言

弁膜症を経て

歩々是れ道場

今日は5歳の誕生日。
おぼろげに目を開けると、まばゆい光の中に私の顔を覗き込む3人の顔が見えた。
「あっ!起きた!起きた!目、覚ました!」
誰彼となく、声が聞こえた。
身動きできない身体が、自分の置かれている状況を私に教えた。
その時、思うように動かない口で私が上げた第一声は何だっただろう。
二言三言、同じ言葉を口にした、そんな気がする。
そうしてまた引きずり込まれるように眠りに落ちた。

以前仕事で、京都の大徳寺の、数ある塔頭(たっちゅう)の一つに行った。
目的は歴史上の人物の墓参と、その墓を預かる僧侶の話を聞くことだった。
ところが、事は簡単に運ばず、私との事前の電話のやりとりで僧侶は機嫌を損ねてしまい、京都訪問が白紙になるという状況に陥った。
うろたえはしたものの、私に非があるとは一切思わなかった。
すると翌日、僧侶は「大人げなかった」と、詫びの電話を入れてきた。
80歳前後の立場ある著名な僧侶が真摯に反省して素直に詫びる、これは簡単にそうできることではない。
引っ込みが利かなくて我を通す、そんな輩が大概で、そうやって周りの人間を振り回すものだ。
僧侶に実際会ってみると、眼から矢でも飛んできそうな迫力ある眼光で、いかにも禅宗の坊さんといった風貌だった。
私は電話での無礼を詫びて頭を下げた。
僧侶は何も言わずにっこりと笑みを浮べ、手を差し伸べた。
握手を交わすと、その手には自己の力で人生を切り開いてきた強さがあった。
僧侶は土産に私たちに色紙の書をくれてよこした。
色紙の書の内容はそれぞれに違っているようだった。
私が受け取った色紙には力強い筆文字で「歩々是れ道場」と書かれ、別にもう一枚、説明書きがあった。

歩々(ホホ)是(コ)れ道場
「趙州禄(ジョウシュウロク)」に出典を見る。「珠(タマ)磨(ミガ)かざれば光なし」。どんなに高価な宝石も手をかけ磨かなければ決して本来の輝き、光を発することはない。私共人も磨きをかけ学び、きたえなければ本来のすてきな自分を発揮することは出来ない。磨き、学びきたえる場は日常生活の一つ一つすべての場が自身を磨く場である。特別の道場、特別のことをするのではない。日々のあたりまえのくらしの中にこそ貴方を磨き、すてきにする場なのだ、と。心の持ち方、目のつけどころを示した句です。一歩一歩、一こと一こと、一つ一つ積みあげて城が完成する、一石一石が日常の生活なのです。立派な自分という城を作って下さい。

この5年、思い通りにいかないことや怒りで自分を腐らすこと相変わらずで、その度に日々是修行、人生修行と言い聞かせてはみたものの、その効果皆目見えず、すてきな自分までには程遠い。
されども二度の生を与えられ、またこうして魂の錬磨の場を与えられたことは何にもまして有り難い。
怒らず、恐れず、悲しまず、そして腐らずに「歩々是れ道場」で心新たに、だ。
母、妹、弟の、3人への第一声は、「ア、リ、ガ、ト」だったと思う。
そして今、この人生にも、「ありがとう」と言いたい。