朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「生きる意味」を考えて

最近、神経難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)の患者さんたちと交流を重ねる中で、人間が生きる意味について、深く気づくことがあったので、そのことを論じたい。
ALSの患者は病気が進行すると、全身が動かなくなり、呼吸器をつけて生命を維持することになる。頬とか足指などにわずかでも動かせるところがあれば、そこにセンサーをつけ、介護者が示す50音の一語一語に対し、イエスかノーの反応を示して言葉をつむぎ、意思を表す。その動きさえなくなると、意思表示の手段がなくなってしまうのだが、耳は聴こえ目も見えるし、思考力も働いている。
そういう状態をTLS(閉じ込め症候群)と呼び、2年も3年も続くことが多い。患者にとっては、つらく長い日々になる。介護する家族の負担も大きい。
このため、患者の中には、「思いを何一つ伝えられない状態には耐えられない」「家族に迷惑をかけたくない」と考えて、最初から呼吸器をつけるのを断って死を急ぐ人が少なくない。一度つけた呼吸器を外すことは、自殺または殺人と見なされるが、現実にそういう悲劇が起きている。
▶急がされる死
現代医学は延命のための技術開発には熱心だが、その結果、生と死の境界領域で患者・家族が直面することになる問題に対しては、真摯に取り組む姿勢に欠けていた。医師が患者に対し、呼吸器をつけて生きる大変さを強調して、暗に呼吸器を付けない選択を誘導する傾向すらある。死を急がせるに等しい。
私が交流しているALS患者の中には、TLSになっても、家族などの支えを受けて、最後まで生き抜くという人が少なくない。すでにTLSに陥っている患者もいる。そういう家族は、患者を中心に日常生活の時間が流れ、家族のきずなも素晴らしい。もちろん介護保険や自費によるヘルパーの力も借りてのことだ。
一方、TLSになったら、尊厳死を選びたいから、呼吸器を外してほしいと願う患者もいる。ある患者は、たとえ家族の支えがあっても、TLSになったら、生きる意味がないという。しかし、現行法の下では、それは許されない。
そこで問われるのは、「生きる意味」をどうとらえるかということと、TLS状態でも「生きるのを支える条件」は何かということだ。
▶語りかける身体
ALSだった母親を12年間にわたって介護し(そのうち7年はTLS状態)、そこで気づき考えたことを記録した「逝かない身体 ALS的日常を生きる」(医学書院)がたまたまこのほど大宅壮一ノンフィクション賞を受け、ALS患者の問題を一般の人々にも知らせるきっかけとなった。著者、川口有美子さんの注目すべき気づきは、次の二点だ。
◎たとえ沈黙したままの身体であっても、毎日豊かな語りかけをしてきて、介護者の思考を促すのだということ。そういう中で、母の身体が「あなたたちと一緒にいたいから生きている」と伝えるために無限の時間を求めていることに気づいたのだ。新たな身体観だ。
◎人間が「生きる意味」は基本的には本人が見いだすべきものであっても、TLSのような特殊の状況下では、愛する他者によって見いだされ得るものであり、その気づきが介護者に介護の意味を自覚させ、介護の日々を心豊かにさえするのだということ。
現代の医学は、生産的活動をしなくなった人間の身体を「寝ているだけの存在」、いわばモノとしてしか見なくなる傾向がある。そのような中で上に挙げた気づきは、医療のあり方や倫理に大きな影響を与えるほど重要な意味を持つ。
尊厳死を望む人の訴えも重要だ。この5月には、日本神経学会やソーシャルワーカーの日本医療社会事業協会が、それぞれの総会でALS患者に対する倫理問題を取り上げる。たとえTLS状態でも患者・家族が生きる意味を見いだせる条件を社会的に整備することは、一人ひとりの命を大事にする国のあり方につながる問題だ。
※ノンフィクション作家の柳田邦男さん(平成22年4月23日地元紙掲載)