朴念仁の戯言

弁膜症を経て

輪廻転生

椎名誠著の「ぼくがいま、死について思うこと」の巻末の、少し長いあとがきに二十歳の時に自死した友人Nのことが書いてあった。

車で子どもを撥ね、大怪我をさせてしまい、Nは自責の念から縊死した。

遺書には子どもへの詫びと悔恨の言葉、そして「死にたくない」という言葉が何べんも書き連ねてあったという。

読んで二つのことを思い出した。

私の友人Sの自死と、私が引き起こした人身事故のことを。

Sは借金苦から5月の林檎の花が咲く頃、車に排気ガスを引き込み、自死した。

子ども三人と妻を残して。

白い林檎の花々と、新緑鮮やかな樹々たちは、Sの自死を思いとどめることはなかった。

「涙を流した跡があった」

Sの家に焼香に行った時、Sの母親がそう言って亡き息子を愛おしむかのように微笑した。

今際の際、Sのこめかみを伝った一筋の涙はSの心を癒したのだろうか。

幾人かの友人に借金し、サラ金にも手を出し、取り立ての電話が職場にまで掛かってくるようになったと葬式後、Sと仲の良かった友人から聞いた。

Sは麻雀、競馬、パチスロと賭け事が好きだった。

「おめぇだちが金貸すからこうなっちまっただ」

こう言ってSの祖父は友人たちを責めたという。

 

その日は雨だった。

会社の帰りに小学低学年の男の子を車で撥ねた。

撥ねた瞬間、子どもの黒々とした頭頂部がマネキンのように運転席のフロントガラスに飛び込み、フロントガラスに幾重もの蜘蛛の巣状の亀裂を走らせ、子どもは吹っ飛び、消えた。

対向車線に駐車していたコンテナ車の後ろから自転車に乗った子どもが飛び出した、と同時にハンドルを思いっ切り左に切り、ブレーキを踏んだが間に合わなかった。

車は左側の民家の塀にぶつかって止まった。

俺の一生は終わったと思った。

運転席から降りて子どものところへ駆け寄ると、子どもは何事もなかったかのようにむっくりと起き上がり、自転車を押して歩いて行こうとした。

「怪我ない? 痛いところない? 大丈夫?」

「うん」

大事には至っていないようだが、頭を強く打ったため、動かないようにと道路脇に座らせ、携帯で救急車を呼んだ。

子どもは膝小僧を撫でておとなしくしていた。

仕事帰りの車が列となり、事故車と立ち尽くす私を眺めていた。

救急車が子どもを乗せて病院に向かった後には警察との現場検証があったが、その間、現実味がなく、夢のように時間が過ぎていった。

その延長の先に総合病院の廊下に立っている私がいた。

子どもの両親に向かって頭を深く下げ、心から詫びた。

検査の結果、脳には異常は見られず、身体も擦り傷程度で何ともなかった。

安堵した。

声を出して泣きたいくらい安堵した。

もし寝たきりになったら、もし一生障害を背負う身になったら、もし死んでいたら、果たして私の人生はどうなっていただろう。

罪を一生背負い、生き永らえることができたであろうか。

 

輪廻転生。

肉体は滅んでも魂は永遠に生き、車輪のように生まれ変わり、死に変わると仏教は教える。

六道輪廻。

人間が生死を繰り返す世界は六つあるという。

地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の世界。

人間の目に見えるのは畜生界と人間界だけ。

果たすべき使命も果たさず、無念の想いを抱き自死した者は地獄に落ちるという。

ジメジメとした暗黒の世界で一人無限の時を過ごす。

最終の天上界を前にしての地獄への逆戻り。

そこから人間界に辿り着くまで数百年、数千年要するとか。

人は神の使いなり。

魂の進化のため、人間として不自由な肉を纏い、欲に振り回され、悩み、苦しみ、楽しみ、喜び、学ぶ。

そうして根源の世界に還る。

死はそれで何もかも終わり、無ではない。

生きるという人間として果たすべき最低の役割を放棄してはならない。

Sの自死と人身事故は、当時の傲岸不遜な私への警告でもあったろう。

Sの、時置かずして人間の転生を祈るなり。

過去のあらゆる出来事に感謝するなり。