朴念仁の戯言

弁膜症を経て

今生の学び

先日、母のリハビリの帰りに近くの道の駅に寄った。
昼頃を大分過ぎていたが、弁当を買うついでに夕飯のカレーの食材も買おうと野菜館を物色していた。
すると、すぐ後ろを歩いていた母が急に咳き込み始めた。
母のバッグからマグボトルを取り出し、「コロナ騒ぎだから、(周りに)やばいよ」と言って手渡した。
白湯を口にして咳はすぐに治まったが、赤らみ帯びた母の顔には不安そうな表情が浮かんでいた。
そのまま買い物を続けていると、母はまた咳き込み始めた。
「外に行ってるから」
母は苦しげに、マスクの下から言葉をしぼり出してマグボトルを手に外へ出て行った。
私はそのまま買い物を続けた。
レジに向かう頃、母が戻って来た。
マグボトルを手にして目の前に立つ母。
その髪型は風に煽られたせいで崩れ、茫然自失の体をなしていた。
「髪の毛ボサボサだよ。どうしたの」
私は、笑いながら、笑いながら哀しみ深くし、悔やみの重さに沈んでいった。

この時の哀しみと後悔は、今から15年前のことを思い出させた。
その日、母と私は病室にいた。
祖母の様子窺いだった。
祖母は、狭心症気味で肝炎を患い、その後、大腸癌から肺癌を経て、自由勝手な独り暮らしもままならなくなって入院となった。
入院当初、意識ははっきりしていたが、徐々に食欲の衰えが見え始めた。
呆けのような兆候も見られるようになった。
「サヨばあ(婆)、サヨばあ、こっちさこー」
そう言いながら手招きする祖母に見舞いに来ていた叔母が不審に思って声を掛けると、
「おめぇはそごにサヨばあ坐ってんの見えねえのか」と言われたという。
祖母はその頃から、大分昔に亡くなった身内や知人の姿を見るようになったらしい。
今で言う「お迎え現象」だったのだろう。
これが最期とも覚悟もしていたようだ。
「(家の)ベッドは辰造にやれ。もう、駄目がもしんにぃ」
ふと祖母が洩らした言葉を、後日、母から聞いた。
その日、ベッドに横たわる祖母に意識はなかった。
いつ亡くなってもおかしくない状態だと医師から伝えられていた。
昼飯時か、夕飯前だったか、祖母の変わらぬ容体に痺れを切らした私は、母に帰宅を促して家路についた。
それから間もなくして祖母は亡くなった。
朝方、一人病室で誰に看取られることなく。

この二つの出来事の重なりは、カミソリの刃物のような酷薄さと、自分可愛さの我欲的自尊心が私の心の内に潜んでいることをありありと教え示した。
同時に、私の気質の欠損を示す四字熟語が浮かび上がり、その実践が今生の学びの一つと感取した。
「自己犠牲」
他者のために自己を捧げること。