朴念仁の戯言

弁膜症を経て

月の満ち欠け

先日、書店で久しぶりに本を購入した。
2時間近く物色し、あらかた買う本を定め、あと一冊買うかどうか迷っていた。
三巡目だったろうか、もう一度手に取り、出だしの文章に目を通して、「ものは試し」とそのままレジに進んだ。
買うことにしたのは岩波文庫の装丁も影響している。
正確には「岩波文庫的」だったが。

久しぶりに一気に読んだ。
一人の女性の、数奇な生まれ変わりの物語。
淀みのない文章に惹き込まれ、時折、唸り声が漏れた。
「面白かった」
誕生日に読了しての感想。
が、それ以上のものはない。
もっと深く、人の心をえぐるような内容を期待していた。
さりとて、「月の満ち欠け」は私に、私自身の生まれ変わりの意味を問うものとなった。

生まれ変わりはあると信じている。
実際、科学的に説明の仕様がない幾つもの事例が、テレビでも、各種書籍でも紹介されている。
死後、仏教では六道(六界)のいずれかに進むとされている。
天道、人間道、修羅道畜生道、餓鬼道、地獄道
世の理不尽さ、不条理に耐えるための方便かも知れないが、そう思わずには魂の救いはなかったのだろう。
理不尽さ、不条理は、いつの世も付きまとい、人を惑わし、狂わせる。
魂を救うもの、別な言葉で言えば「人を人としてたらしめるもの」、それがあるかないかで生き方は変わる。

過去を振り返って、恥じ多き人生を歩んできた私は、畜生道、餓鬼道、いや地獄道まで落ちるかも知れない。
そんな私でも今こうして人としての体面を保ち、過不足なく生活できるのは「人を人としてたらしめるもの」があったから他ならない。
もしも、あわよくば人間道、生まれ変わりが叶う時には一つの願いがある。

誕生日の晩飯時、「旨い、ほんとに旨い」と言いながら箸を口に運ぶ母。
母に伝えた。
「誕生日、ありがとうございます」

この母の元で、再び人として魂の錬磨に努めさせてほしいと。