朴念仁の戯言

弁膜症を経て

アウシュビッツ到着 ①

(もしわれわれが強制収容所においてなされた豊富な自己観察や他者観察、諸経験の総体をまず整理し、大まかな分類をしようと試みるならば、われわれは収容所生活への囚人の心理的反応に三つの段階を区別することができるであろう。すなわち収容所に収容される段階と、本来の収容所生活の段階と、収容所からの釈放乃至(ないし)解放の段階である。)

第一の段階はいわば収容ショックと名づけられるようなものによって特徴づけられている。
しかもわれわれは、心理学的なショック作用が、すでに事情によっては実際の収容より先にあったということをはっきりと想起せざるを得ないのである。
たとえば、私自身がアウシュヴィッツに送られた輸送の場合はどうであったであろうか。
次のようなその様子を想像していただきたい。

1,500名の輸送はすで数日数夜続いていた。
その列車たるや一貨車に80人もの人間がその荷物(彼等の財産の最後の残り)と共にうずくまっているのであり、積み上げられたリュックサックや袋で窓の一番上の部分だけが残っており、そこから薄暗い暁の空を見上げることができた。
すべての人々は、この輸送はどこかの軍需工場に行き、われわれはそこで強制労働者として使われるであろうという意見であった。
そして列車は今やあるひらけた平地にとまりつつあるかのようであった。
一体、今われわれがシレジアにいるのかポーランドにいるのか誰も知らなかった。
機関車の鋭い汽笛が薄気味悪く響き、それはさながら大きな災厄に向かって引かれていく人間の群の化身として、不幸を感づいて救いの叫びをあげているかのようであった。
そして列車はいまや、明らかに、かなり大きな停車場にすべりこみ始めた。
貨車の中で不安に待っている人々の群の中から突然一つの叫びがあがった。
「ここに立札がある——アウシュヴィッツだ!」
各人は、この瞬間、どんなに心臓が停まるかを感ぜざるを得なかった。
アウシュヴィッツは一つの概念だった。
すなわちはっきりとはわからないけれども、しかしそれだけに一層恐ろしいガスかまど、火葬場、集団殺害などの観念の総体なのだった!
列車はためらうかのように次第にその進行をゆるめていった。
すなわちあたかもそれが運んできた不幸な人間の積荷を徐々にかつなだめつつ「アウシュヴィッツ」という事実の前に立たせようとするかのようであった。
今やすでに一層色々なものが見えてきた。
次第に明るくなる暁の光の中に、右も左も数㎞にわたって、恐ろしく大規模な収容所の輪郭が浮かび上がってきた。
幾重もの限りない鉄条網の垣、見張塔、探照燈、それに暁の灰色の中を灰色に、ノロノロと疲れてよろめきながら、荒れはてた真直ぐな収容所の道を行くぼろをまとった人間の長い列——誰もどこへ行くのか知らないのだ。
そして短い号令の笛があちこちできこえる——誰も何のためだか知らないのだ。
すでに我々のうちの何人かは驚愕した顔をしていた。
たとえば私は一対の絞首台とそれに吊り下げられた者とが目に入った。
私はぞっとした。
しかしそれどころではなかったのだ。
すなわちわれわれは一秒毎に一歩一歩恐ろしい戦慄の中に導かれなければならなかったのだ。

 

※ヴィクトール・エミール・フランクル著「夜と霧」より