朴念仁の戯言

弁膜症を経て

ひとりで死んでも「幸せな人」だった

私は一度だけしんちゃんに会ったことがあります。
祖母を亡くした葬儀の時です。
私が満4歳を目前にしていた時ですが、わりとよくその時の情景を覚えています。
当時、私と両親は大阪に住んでいました。
祖母は祖父、長女、次女とともに4人で富山県に住んでいて、心臓病でほとんど寝たきりの状態が続いていたのです。
私は母に連れられて大阪から何度も見舞いに行っています。

ある時、祖父が祖母の寝ている部屋に行ってみたら亡くなっていたそうです。
同居家族はみんな家の中にいたのに、最期はひとりで旅立って行くことになりました。
私の名前の滋子の滋は、祖母からもらったそうですから、私の父や母も彼女を敬愛していたようです。

「おばあちゃまよ」と導かれた部屋に布団が敷かれていて、そこに祖母が横たわっています。
子ども心にも非常に穏やかな表情を浮かべているように感じました。
が、いつもなら「こっちにおいで」と言ってくれるはずなのに黙っています。
なぜか私はいつも「なんこちゃん」と呼ばれていたのですが、その優しい呼び声が聞こえません。
抱きつけば必ず迎え入れてくれた祖母がまったく動かないのです。
手をさわると恐ろしく冷たかったことを覚えています。

死というものに初めて触れた感覚でした。
「もう会えないな」と思えました。
すごく悲しくなって、涙が次から次へと出てきます。
その時、私は人が死ぬということを初めて意識したようです。
泣きべそをかいている私に、あまり背の高くない、か細い男の人が「なんこちゃん、おいで。あっちでお菓子食べよう」と声をかけてくれたのです。
それがしんちゃんでした。
そっと隣の部屋に連れて行ってくれて、こう話しました。
「大丈夫だからね。おばあちゃんは死んでしまったけど、苦しくないんだよ。今まで苦しかったけど楽になったんだよ」
そして飴やおせんべいをくれると、お通夜の間ずっと私を膝の上に抱いていてくれたのでした。
「とても優しいおじさんだったな」というのが、私がたった一回しんちゃんとじかに会った時の印象です。
葬式の後、しんちゃんは再びどこへ行ったか分からなくなったということでした。

私が中学生の頃、しんちゃんは一度だけ私の家にやって来たことがあるそうです。
簡易宿泊所に寝泊まりしながら日雇い生活をしていて、お金に困った様子だったといいます。
この時は母から、「まともな職にも就かずに、何しているんだ!」と怒鳴られて帰って行ったとのことです。
このことは後になって母から聞かされました。
「まるでフーテンの寅さんみたいな人だな」と思ったことを覚えています。

ある日警察から母に電話がかかってきます。
「山本信昌という人を知っていますか?」
「弟ですが……」
「今病院に収容されました。意識が戻らないので、確認しに来てください」
その一カ月くらい前に、千葉県西部の街にある図書館の入り口で叔父は倒れていたとのこと。
おそらくその付近に住んでいたのでしょう。
いくつかの病院を転々と回され、最終的に東京都墨田区の病院に搬送されてきました。
病院に駆けつけた母は、ベッドに横たわる男性を見てすぐに「確かに私どもの弟です」と確認できたそうです。
とはいえ、呼びかけても、話ができる状態ではありません。
身元不明だった人物にあまり積極的治療が施されることもなく、点滴による栄養補給が行われ、尿の管(膀胱留置カテーテルカテーテルの先に風船が付いており、これを膨らませることによって抜けないようにしてあるため、バルーンカテーテルとも呼ばれています)が入れられていました。
医師からは「非常に厳しい状況ですので、今日明日には命が尽きる可能性はあります」と告げられました。
「何やってるの、あんた!」
母はしんちゃんの手を握り、体を揺さぶります。
しんちゃんはそれに反応してわずかに体を動かしました。
相手が姉だと分かったのかもしれません。
しかし、母には富山に一家の主婦としての仕事が待っているので、すぐに引き返さなければなりませんでした。
「これが最後かもしれない」と思いながら、主治医に「積極的な延命治療は望みません。できるだけ苦しまないように旅立てばそれが弟の本望だと思いますから」と告げてきたそうです。

七日後、病院から「今亡くなったので来てください」と連絡を受けました。
母はまた東京に出かけます。
病院で安らかな顔で眠っている弟の亡骸(なきがら)を目の前にしました。
しんちゃんはお骨にしてもらって、実家の山本家のお墓に入れることになります。
その時、身内の数人だけが集まりました。
そして、しんちゃんを哀れむ言葉を語り合ったのです。
「若くして定職を捨て放浪生活に入り……」
「明日のあてもない日雇い暮らしで……」
「家族も持たず、ずっとひとりきりで過ごし……」
「たったひとりで寂しく死んでいって……」

納骨が終わると、きょうだいたちはしんちゃんがお世話になった図書館にお礼に出かけたのでした。
ところが、そこでしんちゃんのまったく知らなかった一面を知らされることになるのです。
「先日ここで倒れて、救急車を呼んでいただいた者の身内の者ですが……」
「ああ、あの方はよく覚えていますよ。ほとんど毎日見えていましたから」
「毎日ですか?」
「ええ、そうですねえ、仕事の空き時間に朝から見えることもあれば、午後になってからのこともあり、その都度何時間かはお過ごしでした。ここで本を読んで、借りて帰られることもあったのですが、延滞することもなくきちんと返しておられました。古典の原文などを読んでおられましたよ。難しい本を随分集中して読んでいるなと思って感心していたほどです。来館の時と帰る時は必ず私どもに挨拶をされていました。『本当に本が大好きな人なんだ』と話していたんですよ」
「じつは、あの後亡くなりました」
「そうですか……。残念ですね。でも、それはそれでお幸せな最期ですね」
「えっ?」
「毎日自分の好きな本をここで倒れる数時間前まで読まれていたんですからね。いくら本好きでも、そこまでできる人は滅多にいません。私たちだって本が好きでこの仕事を選んだわけですが、そんなに本を読みふける時間はとても取れませんよ。しかも弟さんは、最期は大好きな本が集まった図書館の前で倒れられたわけです。好きなことだけに熱中できたわけですから、羨ましい気さえしますよ」

その時初めて、きょうだいたちの中でしんちゃんの「哀れな死」「惨めな死」のイメージが、「幸福な生涯」に変わる大転換が起こりました。
しんちゃんは小さい時から本が好きで、父親の「男たるもの」という概念から外れていたために常に″要らない物″扱いされてきました。
大学で文学を学びたくても叶わなかったけれど、その憧れを最後まで捨てずにずっと夢として持っていました。
最終的には行き倒れ同然でしたが、倒れる間際まで好きなことをしていたのです。
その時、きょうだいたちの胸には、「どうして父親はこの個性を認めてやれなかったのだろう」という思いが再び出てきました。
時代が違えば、父親から勘当されることもなく、文学の道を歩んでいたかもしれないのに、戦争、敗戦という時代がそれを許しませんでした。
しんちゃんの「哀れ」「惨め」「恥ずかしい」というイメージは、亡き父親から与えられただけのものだったのかもしれません。
たったひとりで倒れて逝ってしまったけど、そばにはきっと誰かが寄り添っていて、決して寂しいわけではありませんでした。

人は誰でもいつどこで死ぬかわかりません。
その時、その人は「本当に好きなことをしてきた」ということが言えるものでしょうか。
しんちゃんは確かにそれを持っていたということが想像できます。
ある意味でそれは図書館の人たちが言っていたように「羨ましいこと」なのではないでしょうか。


※緩和ケア医・おひとりさま応援医の奥野滋子さん「ひとりで死ぬのだって大丈夫」(朝日新聞出版)より