朴念仁の戯言

弁膜症を経て

不運続きだった「本の虫」

しんちゃんは山本信昌(のぶまさ)という名前でした。
信昌の信の文字から家族は「しんちゃん」と呼んでいました。
母は男二人女三人の五人きょうだいの下から二番目。
しんちゃんは末っ子です。
私が大学生だった頃しんちゃんは52歳で亡くなっています。

第二次世界大戦中、母がたの祖父は逓信省(ていしんしょう)(現総務省日本郵政、NTT)勤めのお役人でした。
当時日本の領土であった韓国の京城(けいじょう)の役所(現在のソウル特別市庁)に赴任しており、一家はここで生活をしていたのです。
きょうだいの長兄は当時大学生でスポーツ万能の非常に男らしい人だったようです。
将来の一家を背負って立つという気概にあふれ、友だちも多くて人望が厚い人だったと聞いています。
それにひきかえ、その頃現地の日本人国民学校初等科(現小学校)に通っていたしんちゃんは、小さい頃から泥んこ遊びなど見向きもせず、いつも部屋の中で本を読んでいるという子でした。
将来は大学で文学を学んで、文学者になりたいと言っていたそうです。
祖父は昔気質(かたぎ)のいわゆる頑固おやじで、こんなしんちゃんを白い目で見ていたといいます。
ところが、一家を支えることになるはずだった長男がある時突然高熱を発し、激しい腹痛を訴えて何も食べられなくなったかと思うと、あっという間に亡くなりました。
何かの感染症に罹(かか)ったのでしょうか。
これを機に一家の苦難が始まります。

やがて敗戦を迎えました。
一家は財産を何もかも失い、引揚者となって京城を離れ丸裸同然で命からがら、船で博多港までたどり着きました。
ところが、祖父の故郷の富山に帰ると町は焼け野原になってしまっていて、空襲で実家も何もかもが全部失われていました。
当時私の母は14歳、しんちゃんは11歳という年齢です。
辛酸を極めたような一家の生活が始まりました。
そのなかでようやく親戚の家に身を寄せることができ、馬の世話やら農作業を手伝うなどの仕事でどうにか一家は糊口(ここう)をしのぐことができるようになります。
が、家族みんなが苦労を重ねるなかでも、しんちゃんは文学を学びたいという希望を捨てることができませんでした。
野良仕事をするより本を読む時間をとても大事にし、どこからか小難しい古本を貰ってきては、ちょっとした仕事の合間でも読みふけるという生活だったのです。
そんなしんちゃんに対して祖父は怒って「男は家族のために働くものだ」「お前は能なしだ」と罵倒するなど、かなりぶつかり合ったようです。
しんちゃんは「大学へ進学して文学を勉強したい」という夢がありましたが、とてもそんなことが叶えられるわけもなく、20歳近くになってようやくある工場で働き口を見つけたのでした。
そんな時しんちゃんに縁談が舞い込みます。
安定した生活を送るための目途が立ったということなのでしょう。
実家を出て、夫婦二人だけの借家での暮らしが始まりました。
しんちゃんは、しばしの幸福な時間を迎えることができたのかもしれません。
しかし、その幸福は一年間も続きませんでした。
ある日またしんちゃんに悲劇が起こったのです。

勤め先の工場が近いので、しんちゃんは一時間のお昼休みに昼食をとるために毎日自宅まで戻り、食後はいつも読書をしていたといいます。
筋金入りの読書の虫だったようです。
ある冬の日に、昼食を終えて職場に戻ると、「家が燃えている」という連絡が入りました。
しんちゃんはこたつに火を入れてそのまま消し忘れたようです。
新婚家庭は何もかも焼失してしまいました。

借家を燃やしてしまったのですから、当然賠償責任が発生します。
自分に負担がかかることを恐れたのか、新妻はしんちゃんのもとを逃げ出してしまいました。
こうして再びしんちゃんは実家に戻ることになりましたが、相変わらず本にかじりついていて、文学を学びたいという思いが募っていくばかりでした。
ついに祖父と大げんかになります。
「お前みたいな奴は男ではない。男はもっと家族のために働くものだ。文学なんかで稼げるとでも思っているのか。勘当だ。出て行け!」

こうしてしんちゃんは家を出ていきました。

 

※緩和ケア医・おひとりさま応援医の奥野滋子さん「ひとりで死ぬのだって大丈夫」(朝日新聞出版)より