朴念仁の戯言

弁膜症を経て

悲しみ癒えることなく

「あのときの息子の体の冷たさ、それが原点です」
全国自死遺族連絡会の代表理事田中幸子(70)の長男健一は2005年11月、34歳の若さで自らの命を絶った。
当時、宮城県警塩釜署の交通係長。
連絡を受けて仙台市の自宅から署の官舎に駆けつけ「体に触ると氷よりも冷たかった」。
自分の血と入れ替えれば、体が温まって息子がかえってくるんじゃないか。
本気でそう思った。

その春、塩釜署に異動した。
直後に高校生ら18人が死傷する交通事故が起きる。
交通の仕事は初めてだったが、上司は支え励ますどころか「暴言」さえ吐いた。
他の仕事も積み上がり「真面目な子なので全部抱え込んだ」。

4カ月半、一日も休まず働き、疲れ果てて療養に入る。
夫婦仲が悪くなり妻は実家に帰った。

▶恨み
死の直後に兄の携帯メールの記録を見た4歳下の次男が「これじゃあ、お兄ちゃん死ぬよ」とつぶやいた。
追い込まれていく跡が示されていた。
受診した精神科医にも心ない言葉を浴びせられたと生前、聞いていた。
警察にも不信感が募った。
親族への連絡の前に家中を捜索したようだった。
着いた時、息子は着替えさせられ、布団に寝かされていた。
遺書もなかったと言われた。

田中は人を恨み、救えなかった自分を責め、やり場のない怒りで暴れた。
何度も昏倒(こんとう)した。
次男は母の死を恐れた。
トイレでも風呂でも、ドアの前に立ち「大丈夫?」と声をかけてきた。

死にたかったが死ねなかった。
カウンセリングを受け、僧侶の話を聞き、占いを回った。
助けになりそうな本を次々読んだ。
仏壇の前で泣いていると次男に言われた。
「僕が死んでもそんなに悲しんでくれる? お兄ちゃんみたいな優秀な人間が死んで、僕みたいな駄目なのが残ってごめんね」
はっとした。
支えてくれている次男を忘れていた。
それからは笑顔を取り戻そうと努めた。

大切な人を亡くした同じ思いの遺族に会いたい。
次男が探してくれた福島市の会に出かける。
初めて胸の内を打ち明け、少し楽になった。
だが仙台にはそんな会はなかった。
「誰か作ってほしい、私を助けてほしい」
あちこちに要望したが、動かない。
「だったら自分で作るしかない」

▶藍の会
健一の自死から8カ月後「藍(あい)の会」を始める。
藍は警察官の制服の色。
息子は仕事に誇りを持っていた。
いつも息子と共にという思いを込めた。
電話番号を公開し、24時間いつでも遺族の電話をとる。
「私自身が今でも夜や明け方に悲しくなって思い惑う。そんな時間に支援機関は電話に出てくれないから」

各地の遺族の会の立ち上げも応援し、08年には全国連絡会を組織する。
地元では遺族が語り合う「わかちあいのつどい」、それを卒業した人の「茶話会」、サポーターも交えたサロンも開く。

遺族には柔らかな笑みを絶やさない。
後追いだけはさせないという強い意志が、その奥にある。
活動の中で直面したのは、自死した人と遺族への差別や偏見だ。
例えば行政の担当者や支援組織から「自殺は貧困や無知が原因」という発言が頻出する。
自死者は「人生の敗北者」であり、遺族は「敗北者の家族」とみなされる。
政府の自殺総合対策大綱は「多くが追い込まれた末の死である。(略)さまざまな社会的要因がある」としているのに。

支援団体は各地の集会で「泣く家族」の登壇を求め、多くの遺族が壇上で号泣したこともあった。
田中は批判する。
「遺族は運動の道具にされた。こんなかわいそうな人を出さないために自死を減らそうと。哀れむべき存在だという差別感を強めました」

▶提案
田中はこうしたスティグマ(社会的烙印=らくいん=)と徹底的に闘う。
「自殺」を「自死」に言い換えるという提案もその一つだ。
「自らを殺す」という自殺は「自由意思で実行した身勝手な行為」という偏見を生む。
提案は実を結び、宮城、鳥取島根県仙台市などが公文書で「自死」に切り替えた。

賃貸物件の賠償請求もスティグマに起因する。
「けがれた死という烙印です。家賃減額分や改修費用で何百万、アパートの建て替え費用として一億円以上請求された例もあります。泣く暇も与えず火葬場まで来る」
法律家や医師らと「自死遺族等の権利保護研究会」を作って法的問題を検討し、遺族と支援者のための手引書も作成した。

「優しい人が優しいままに生きられる社会に」
そう願って走り続けてきた。

田中自身の悲しみは癒えたのだろうか。
「私は幸せになることを望んでいません。悲しみはそのまま。回復するとすれば息子を生き返らせてもらうことだけれど、それはできない」
いったん言葉を切った。

「親として助けられなかった。息子が生きていた頃のような青い空は見えない」


※文・佐々木央さん(平成31年3月23日地元紙「ときを結ぶ」より)