朴念仁の戯言

弁膜症を経て

大石順教尼を偲びて ー人間、このかけたるものー㉒

「それで先生は、いつも明るく生きてゆけるのですか」
「私のいう″心の生き方″というのは、手のない人は、み仏の手をいただき、眼のない人は心の眼を開かなければならないのだよ。そして足の不自由な人は感謝の心でしっかりと大地を踏まなくてはならないのだよ。そうしなければ私たちの救われる道はないのだよ」
「私にはとても難しい道だな」
「そんなことはありません。身体の不自由、これはね、そういう因縁なのだから仕方がないが、私たちは″心の障害者″になってはいけないのだよ」
「″心の障害者″? そんな障害があるのですか」
「あんたね、片足が悪いだけでよく転ぶでしょう。どうしてかわかりますか」
「わかりませんが、悲しいです」
「転ばなくても歩ける方法を教えてあげよう。それはね、悪い足を隠さないことだよ」

はっとして、娘は順教尼の言葉を待った。
「″心の障害″というのはそれを言うのだよ。忘れなさいということは無理かもしれないが、片足が悪いくらいのことに心を奪われてはいけないのだよ」
「どうしたら、その″心の障害″を取り除くことができるのですか」
「自分のことは自分でできるようにするという、それだけの小さな生き方でなしに、世の中のために感謝と奉仕の心を持って″心の働き″を生かすのだよ。たとえ、何にもできずにベッドに臥(ふ)せっていても、微笑(ほほえみ)ひとつでも、優しい言葉ひとつでも、周囲の人々に捧げることができたら、その人は社会の一隅を明るくすることができるのだよ」
「先生、私は何にもできない人間だと思っていましたが、気持が明るくなりました」
「その明るさが大切なのだよ。私はね、少し言い過ぎになるかもしれないが、障害というのは身体の自由、不自由とは別ではないかと思うことさえあるのだよ。たとえ健全な肢体に恵まれていても、それを人のために生かす心を持たずに、五欲のほしいままに、お互いが傷つけ合うことしかしらないとしたら、大変な″心の障害者″ではないかと思うのだよ」
「心はみんな同じなのですね」
「この頃、力みでも、強がりでもなく、私は両手を無くしたこと、何も知らない無学な者であったこと、そして、お金に頼らずに貧乏してきたことが、ほんとうに私の眼に見えない大きな財産なのではないかと、しみじみとそのしあわせを味わっているのだよ」
「先生、もう少し分かりやすく教えてください」
「そうね。生きてゆくための、幸福になるための、条件とか資格とかいうものは、何一つないのだ、とでも言ったら分かるかい。禍も福もほんとうは一つなのだよ」
「先生、何だか体中の凝りが全部とれたように、すがすがしい思いがします。ありがとうございました」

身体障害者の大いなる母として、またその障害の弱さを通して得られた順教尼の、”無手自在″なる活路は、多くの人々に目に見えぬ大きな遺産をのこして、昭和43年4月21日午前零時20分、静かな花が大地に還るように81歳をもって逝去されたのである。
前日の夕方まで訪れる障害者のために常と変わらぬ元気さで尽くされた老尼は、珍しく疲労を訴えられ、横になられたままその後一言も口を開くことなく、日頃信慕する弘法大師の入寂と日時を同じくして、み仏の慈手に抱かれ、この世を去られたのである。

人間的な苦しみも、病いも、悲しみも、老いの匂いもなく、寂(しず)かに永眠されたこうした往生の姿を何と表現したらよいのだろうか。
心持ち微笑さえ浮かべ、枕辺にお別れをする有縁(うえん)の方々に語りかけるように眠る老尼の温容からは、生き死にを超えた涅槃入寂の荘厳さをしみじみと思わされたのであった。
人間としての弱さの辛苦を舐め尽くされた老尼であったが、それはひとりの身体障害者として開かれた献身の一生としてでなく、人間—―このかけたるもの—―の真実の味わいを証しされた、尊い示寂(じじゃく)ではなかったかと思うのである。
願わくば慈手観音として、私たちの上に遍照くださらんことを念じつつ筆を擱(お)きます。

※順教尼一周年忌にあたり京都山科・一燈園において 石川洋さん(昭和44年4月21日)