朴念仁の戯言

弁膜症を経て

大石順教尼を偲びて ー人間、このかけたるものー㉑

「先生、お背中流しましょうか」
「ありがとう、お願いしますよ」
緑蔭に包まれた仏光院の昏(く)れは早い。

「おや、垣根に、夕顔の花が……」
浴場の片隅に置かれたタライ湯の中で、順教尼は足の不自由な塾生を相手に、夏の夕暮れの風情(ふぜい)を楽しんでいるのである。

「先生、あの、お尋ねしたいことがあるのですが」
「ああ、いいよ」
「どうして先生は、湯舟に入る前にタライの中で入浴されるのですか」
「……」
「前から一度お聞きしたいと思っていたですが、いけなかったのでしょうか」
「いいえ、悪いことなどありませんよ」
「……」
「聞こえるかい、虫が鳴いているんだね」
草むらの深みから、ところを得て鳴く虫の声が、順教尼には痛いほど心にしみた。
「あ! 先生、涙が——。泣いているのですか」
「勿体ないと思ってね。こうして夕顔の花を見、虫のすだく声を聞きながら風呂につかっていることが、たまらなく勿体ないのだよ」
「タライに入りながら、どうしてそんなに勿体ないのですか」
「そう、あなたには、まだ話さなかったね」

——それは17歳の初夏の頃であった。
思わぬ不祥事に遭難した順教尼こと妻吉が、無惨にも両手を失い悶々たる日を送っていた頃である。
母親に連れられて風呂屋に行くと、物見高い人々の眼が妻吉の肢体に集中されるのであった。
ある日、風呂屋の主人は、
「妻吉さん、あんたの風呂銭はいらないよ」
「へえ、またどうしてですか」
「あんたが風呂に来てくれるとね、たくさんの人が入って来るので繁昌するんだ」
と言うのである。
妻吉の悲しみもさることながら、母親の心はどれほどの辛苦を味わったことだろう。
それ以来、母親は季節を問わず、家の中で妻吉にタライ湯につかわしてくれるのであった。

「私にはその頃の母親の悲しみと、情の深さが忘れられないのだよ」
「だから先生は、そのお母さんの心を忘れないように、タライ湯をつかってから、最後に湯舟に入ることにしているのですか」
「皆さんの温かい真心で生かされていることに、もしも馴れるようなことがあったら大変ですからね。こうしてタライの中に身を置いて、慎(つつし)みたいと思っているのだよ」
「先生、わかりました。私は両手が使えるのに片足がこんなに萎えているものだから、つい見かねて荷物などを持ってくれる人があるんですよ。でも甘えたらいけませんね。これから気を付けます」
「そう、それは良いところに気が付いたね。それでは、このことだけはしっかり覚えておきなさい。私たち不自由な者が、人から手や足や眼をお借りすることができても、どうしても借りることができないものが一つあるのですよ」
「先生、それは一体何ですか」
「それは″心″です。″心″だけは、誰からも借りることはできないのだよ。体は不自由であっても″心″はみんな同じです。その心の生き方を見出すことが、一番大切なことだよ」
「私たちはどうして生きていくことが良いのか、教えてください」
「教えるというようなことでもないがね。この頃は昔と違って、不自由な者に対して社会の関心も高まり大変結構な時代になったと思います。手のない者には社会のほうが手になってくださり、眼のない者には皆様の愛情が眼となり、足の不自由な者には社会の福祉が、歩みよい生活を与えてくれるようになったのですからね」
「でも、実際そうした協力がなければ、私たちは生きてゆけませんものね」
「でもね、私はそれを受ける障害者は、それに頼ってはいけないと思うのだよ」
「はあ……?」
「誰にも借りることのできない大切な心を、ただ同情に頼ることだけに使ってしまったら、あんまりみじめだと思わないかい」
「それもそうですね」
「私は以前、こんな歌を詠んだことがある。
 何事もなせばなるちょう言の葉を 胸に抱きて生きて来しわれ
  ※注:ちょう⇒てふ⇒という

 喜びも悲しみもみなおしなべて おのが心のうちにこそあれ

私たちは弱い人間だけれど、私たちの内に宿されている仏の心というものは、それは涯(はて)しのない大きい尊いものなのだよ」

※順教尼一周年忌にあたり京都山科・一燈園において 石川洋さん(昭和44年4月21日)