朴念仁の戯言

弁膜症を経て

一日不作 一日不食 ⑳

ここは京都山科にある清閑な勧修寺の仏光院である。
今年80歳の春を迎えられた院主順教尼は、ひとり身体障害者のみに限らず、門を叩く来訪者のために、求められるままに、ある時は厳しく、ある時は天衣無縫に、まことに活機にあふれた道を示しておられるのである。
それは尋常でない憂(う)き節(ふし)の多い人生経験の中から見出された活路であるだけに、触れる人々の苦悩に、生き生きとして働きかけ、生命(いのち)あるものとして力を与えずにはおかぬ、真実さがあるからなのであろう。
しかし、その真実さは単なる数奇な運命に生きた経験者としてではなく、その経験を超えて与えられた、宗教的な深さに支えられているものであることを、私はしみじみと思わされるのである。

17歳の春、思わぬ遭難のために双手を失った順教尼こと妻吉は、一日生きることは、一日他人の世話にならなければ、生きてゆくことのできない厄介ものであったのである。
妻吉にとって一日の苦悩は、一日の絶望でしかなかった。
その絶望の淵に立たされ、幾度か、死を覚悟した妻吉にとって、一つの宗教的転機があったのである。

それは″お前がもしここで死んでしまったら、お前の後から続いて来る不幸な境遇の人たちが、やはり同じように死を選ばなければならないであろう″という内なる声であった。
自分の不幸しか嘆くことを知らなかった妻吉にとって、この内なる声は、順教尼の一生涯を貫くただ一筋の白道(びゃくどう)となったのであろうが、この心の転機を通し、妻吉は、自分の苦悩や弱さをそのまま内に抱いて、同じ境遇にある人たちのために、自分の人生を捧げる求道者としての眼を開いていったのである。

やがて恩師藤村叡運(えうん)上人の導きにより、″人の世話をしたいなら、尼になる前に、人の母になれ″という訓(おし)えにしたがって、青年画家山口草平と結婚生活に入るのである。
一子に恵まれた妻吉の前に待っていたものは、貧困生活であった。
一本の手拭を親子三人で使い、嬰児にミルクも与えることのできない貧苦の毎日であった。

この貧困の底に、自分を訪ねてくる障害者のために、どうすることもできない妻吉は、一つの決意を促されたのである。
それは、嬰児を抱くことのできない双手なき母親として、普通の母親と同じように食をとることは″むさぼり″ではなかろうかという、宗教的自己検討なのであった。
それでなくても、最低の食物と飲物で生きる戒(かい)を保たなければ、それだけ後の始末にも他人に迷惑をかける悲しい身なのである。

妻吉は、こうした宗教的な内省と自戒から、今後自分の生活の中から、一日一食を断つことをみ仏の前に誓い、その断った一飯を、たずねてくる障害者のために供養することを決意したのであった。

順教尼は、この当時のことを偲ばれ、
「私が今日、80歳という永い年月を無事に生かされてきたということは、それでなくても両手の運動のない私にとって、一日一食を断ち、供養させていただいたというおかげによって、おのずから運動の少ない私の健康を保つ結果になったのではなかろうかと、冥加(みょうが)というものを思わされているこの頃なのですよ」
と、淡々とした心境をもらされたのである。

たなごころあわせむすべもなき身には
ただ南無仏ととなえのみこそ

これは妻吉が順教尼として高野山に上り、出家得度した感慨を詠んだものである。
が、私は″ただ南無仏ととなえのみこそ″という下の句の中に含まれた、順教尼のただならぬ内省と精進の重さを、そくそくとして身に覚えるのである。
私たちは、人間の小さな力を超えたみ仏の無量の慈愛によって生かされ、それを受けとることに救いの道があるのであるが、その慈愛を素直に受けとらしていただくことの中に、おのずから要求される、私たちの捨身(しゃしん)の内容を忘れがちなのではなかろうか。
私は順教尼が、無手の身を通して、み仏の慈悲に抱かれ、み仏の慈手を通して、多くの不幸な境遇にある人たちのために、生涯を捧げることができるように、深い自己内省と、検討を一日も怠ることなく、精進を繰り返している敬虔な捨身者であることを尊く思わされるのである。

順教尼の居室の柱に、
「一日不作 一日不食
という百丈禅師の一偈の自筆がひそかに掲げられているのであるが、80歳の今日もなお、滋味ある生活の中に、双手なき求道者として、いきいきとして自分を見詰め、深められている一面を記し、この『無手の法悦』の編纂に当たりながら、十分に順教尼を浮き彫りできなかった責めに代えさせていただきたいと思うのである。

一燈園石川洋さん(昭和43年2月10日「無手の法悦」あとがきより)