朴念仁の戯言

弁膜症を経て

春彼岸に思う

この世は、肉を纏った100年そこらの小旅行。
人として喜怒哀楽、四苦八苦を味わい、魂を磨き、やがては肉を脱ぎ捨て、異界へ還る。
歳を重ね、残された年数を数える。
平均寿命からすれば折り返して10年、肉体の死は少しづつ現実味を帯び出した。
時間という概念、その受け止め方は人それぞれ。
20代の一日と60代のそれは違う。
20代は同じことの繰り返しと生命の長さに退屈し、60代は同じことの繰り返しの中に感謝と、肉体の衰えに対する怯え、それに経済的備えの乏しさが加わり、老後の不安を募らせてゆく。
肉体の消滅はあっても生命に終わりはないと知りつつも、老後の不安は未だ拭い切れない。

この世は「板子一枚下は地獄」。
自然災害、不治の病、事件、事故・・・他人事のように見ているこれら災難がいつ何時降りかかるやも知れぬ。

方丈記の冒頭、「行く川のながれは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」が頭をよぎる。
そして、「知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来たりて、いづかたへか去る」と続く。

人(住居)は、さもうたかた(水の泡)のようにして、いつか儚く消える。
人はどこから来て、どこへ去るのだろう。

仏壇の前に坐れば、遺影の変わらぬ笑みが今日も私を見詰める。

「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」
今できうることは、日一日に感謝し、その日限りの命として生きること。
嘆くまい、怒るまい、怖気づくまい、悲しむまいと。
世界平和と身内の息災を祈りながら。