朴念仁の戯言

弁膜症を経て

泥中の蓮 -吉原奇縁ー ⑯

久めは吉原の辰稲弁楼の瀬川花魁、私は堀江遊郭山海楼の舞妓妻吉となって、8年ぶりに逢ったところは、仲の町の辰稲弁楼の揚屋でありました。

このめぐり逢いの後、私はたびたびこの瀬川花魁のもとへ通いました。
ついには楼主の知るところとなり、ある日、二人は内所へ呼ばれて主人からたずねられました。
二人は幼な友だちであり、他人の姉妹であると申しました。
侠気(おとこぎ)な辰稲弁の主人は私が行きましても、金銭を使わぬように姉妹として会わしてくれました。
のみならず吉原の人たちにも自分が先に立って廓内の青楼や芸者たちにも引き合わせ、善孝ともども好感をもって、私が出ています各所の寄席へ縫取りの緞子(どんす)の後ろ幕を贈ってくれました。

瀬川花魁はいやしいつとめこそしておりましたが、彼女の部屋の床脇には尺ほどの仏像が安置してありました。
毎朝起きますとまず身を浄めて、静かに香をたき黙禱(もくとう)をしています。
大きく結い上げた立兵庫の髪に金の糸をたらし、紫かの子の襟を、白いうなじにのぞかせて、後ろ向きに合掌して坐っています姿はじつに麗しく、何とも言えぬ清らかさがありました。
普賢菩薩の化身江口の君もかようなものかと尊い感に打たれました。

仏道のことは何もわきまえのない私も、ただ何となく仏様の慈悲の世界を慕うようになっておりましたこのころ、この朝の気持がたまらなく懐かしかったのです。
しんみりと安らかな気分、薫(くん)じられた五種香の立ちのぼるほのかな匂い、その静かな中に私はゆったりと心が和らぐのでありました。

彼女はある朝言いました。
「このお厨子(ずし)の中の仏像は十一面観世音です。この観音様は、代々家に伝わった物で、ご先祖が確か、奥方様のお輿入れのとき、お里からお持ち遊ばれたのを奥方様から賜った物で大切にしたのでした。家が困ったときよほど手放そうかと思いましたが、いよいよお別れのときだと合掌していますと、何かしら心の道が開けて、教えていただくのです。私はついにここまでお連れ申し上げてまいりました。誠にもったいないことと思います。しかし、私はこの観音様におすがりして、多くのまちがった男の方に、日本の女性の真の心をこめて、朝の別れの言葉を言ってまいりました。二度と道に迷わぬよう、かようなところへは深入りせぬようにといって帰すのです。親兄弟の意見は耳へ入らずとも、こうした廓の女の言うことは必ず聞き入れてくれました。女郎と言えば人は皆いやしいもののように言いますが、一口にそうとも限りません。昔から吉原ばかりでなく、遊女には優れた人がありました。私は義理ある父にここへ売られた、と思えば悲しくもなりますが、この身このままを菩薩の行としてまじめにつとめあげ、亡き父母や家中の人々の冥福を祈りたいと思うております。よねちゃんも仏心を持って人のために尽くしてください。仏様は慈母のごとく、ことに観音様は何事もわが身に変えてお救いくださいます。どんな生活でも決して不幸ではありません。幸、不幸はみんな自分の心の底にあるのです。二人は菩薩行をしましょうね。ああ、ちょっと待って……」
と言いながら、かたわらの文机(ふづくえ)に向かい、さらさらと短冊に書きました。

ありがたやきょうも菩薩の声ありて
さとし給いきおのがつとめを

瀬川花魁は、三つに折りたたんだ短冊を私のふところへそっと入れてくれました。
泥中の蓮とはこの瀬川花魁のことを言うのでしょう。
明治40年、春の暮れのことでありました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)