朴念仁の戯言

弁膜症を経て

泥中の蓮 -吉原奇縁ー ⑮

遭難(堀江遊郭6人斬り)の翌年のことでした。
年の暮れに大阪を出立(しゅったつ)しまして、私たちは上京をいたしました。
新橋駅へ着きますと、多勢の出迎えの人々の中に、有名な幇間(ほうかん)桜川善孝が弟子たちや、吉原の芸妓連を案内して私を待っていてくれました。

駅は美しい人たちで時ならぬにぎわいを呈しました。
私を中にこの人たちを乗せた人力車は新橋から京橋、日本橋をへて、神田の万世橋さがみやという旅館に落ち着きました。

私はこの善孝という人の紹介で、吉原はもとより、そのころの名優たちにもちかくしてもらいました。
浅草方面の侠客で有名な人が、私を連れて各所へ挨拶に廻ってくれたりしました。

いろいろなこともありましたが、万世橋で待ちうけてくれた桜川善孝の案内で、吉原仲の町の青楼(おちやや)で不意に経験した一つの出来事をお話ししましょう。

善孝の弟子はもとより落語家連の慰労のつもりで、ある夜仲の町の辰稲弁へくり込むことになりました。
楽屋の連中は寄席の引けるのを待ちかねて、威勢よく人力車は吉原へ向かいました。
お大尽(だいじん)は、18歳の私です。
やがて大広間の宴もはてて、いよいよお大尽は敵妓(あいかた)の花魁(おいらん)の部屋へお引けということになりました。

私の敵妓は御職(おしょく)(一番の上位)の瀬川という花魁でしたが、私をどうあつかうかと一座は言わず語らず興味を持っていました。

案内された部屋は6畳と4畳半の二間で、お定まりの長火鉢の前には友禅の揃いの座蒲団が二つ敷かれてありました。
鉄瓶の湯はしんしんと音を立てています。
私は一人黙然(もくねん)としながら、お芝居でみる白石噺(ばなし)の揚屋(あげや)を思い出しました。
しばらくするとハタハタと廊下に重ね草履の音がします。
花魁だ、私は思わず坐り直しました。
花魁は来ました。
私は恥ずかしいのでうつむいていました。
彼女は火鉢の向こうに、裲襠(うちかけ)の裾(すそ)もあざやかにさばいて坐りました。

私は少し落ち着くと、そっと花魁の顔を見上げました。
面長な美しい、そして豊国が好んで描いた錦絵を思わせる顔でありました。
彼女の表情に何か一種の動きがありました。
眸(ひとみ)がじっとすわっています。
花魁の口が稲妻のような速さで浴びせかけました。
「あんた、よねちゃん——」
私はぎょっとして彼女の顔を見ました。
「よねちゃんだ、よねちゃんだ、二葉のよねちゃん——」
花魁の顔がくずれ、姿勢がくずれて私を抱きました。
その顔から瞬間私は記憶をしっかりつかまえました。
私は再び驚きの眼を見はりました。
「久め姉ちゃん」
「おお、よねちゃん」
「久め姉ちゃん」

私と彼女はひしと抱きあったまま、からだをふるわせて泣きました。
彼女を抱く手のない私は身もだえしてそれを悲しく思いました。

私にはこの久め姉ちゃんをどうして忘れられるものでしょうか。
この久めという人は、私の七つ、八つのころ、道頓堀の家に身を寄せていました。
彼女は不幸な娘でありました。
女姉妹のない私はこの久めとは大の仲よしで、勝気な私にひきかえて、久めは素直ないい性格の持ち主でした。
彼女の父は淀の家中(かちゅう)でありましたが、御維新後思わしい仕事もなく、ついには父は貧の中に淋しく死んでいきました。
母は姉妹と苦労をしていましたが、久めさんは私の家へ、姉はどこかの家に女中奉公に行きました。
母は二度の夫を持ちましたのが、彼女がここへ来なければならぬきっかけになったそうです。
久めは私の家におりましたが、女髪結になるとて弟子入りをして修行中、姉がリウマチで病み、ついに足の不自由な身となりました。
母も長い苦労で姉妹に心を残して世を去りました。
義理の父はこの娘たちをいつも食いものにしていましたが、姉は不具の身のどうにもならず、ついにこの久めを吉原仲の町の辰稲弁へ年季のつとめに売ってしまいました。
私たち二人は、別れてからの長物語に目を泣きはらし、一夜を寝ずに明かしました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社より)