朴念仁の戯言

弁膜症を経て

「人間性」反故にしたのは

特別寄稿 相模原事件一年後の視座

一年間とくと考えさせられた。
いくつかの原稿を書き、本を読みかえし、対話し、長いインタビューも受けた。
おぼろげながらわかってきたこと、まだ得心がいかないこと、いまさらにたまげたこと・・・が多々ある。
誰も内心うろたえていた。
同時に、狼狽を取り繕おうとしていた。
事件の血しぶきにかすむ深奥の風景を、ほんとうのところは、誰しも見たがってはいないようにも思われた。
血しぶきの向こうに、ひょっとしたら、自分か、おのれに親しいものが佇んでいるとでもいうように、正視を避けてきた節もある。

事件と「楢山節考
あの出来事に皆が慌てたのは、流された血の多さからだけではない。
いわば、「われわれが『人間性』と呼んでゐるところの一種の合意と約束を踏みにじられ」たからなのである。
三島由紀夫のこの言葉(1970年)は、むろん、重度障がい者殺傷事件について語られたのではない。
深沢七郎の名作「楢山節考(ならやまぶしこう)」(1956年)をはじめて読んだときの衝撃を綴ったものであった。
しかし、不思議にも、この言葉ほど一年前の惨劇とそれを引き起こした青年への驚きをよく語っているものはない。
常日頃、さほどの注意も払わずに「人間性」と呼んでいる暗黙の「合意と約束」は、この度の事件で激しく揺らいでよいはずのものであった。
だが、「人間性」という、裏づけのない「合意と約束」の内実が、事件後マスメディアなどで厳しく掘り下げられたようには見えない。
言うなれば、あってはならないこと、一般には起きるはずのないことが、たまたま起きてしまった——と安易に処理されてしまった観が否めないのだ。
つまりは、重度障がい者のみを選別的に抹殺しようとした、世界史的に特筆大書され、解析されなければならない事件が、マスコミ的日常の浅瀬に回収されてしまっただけではないのか。

臓器の感覚
楢山節考」に出合ったときの深刻なショックを三島は腹蔵なく、かつ衒(てら)わず、正確に記している。
「ふだんは外気にさらされぬ臓器の感覚が急に空気にさらされたやうな感じにされ」た、と。
障がい者殺りくと「臓器の感覚」は、なぜかぴたりと重なる。
「棄老」の習俗を背景とする短編小説と重度障がい者殺傷事件は、伝達の困難な新旧の妖しい影が重なり、交差する、まるで影絵のような世界ではある。
それにはニッポンという共同体が、今に至る内側に持ち続けながら、見て見ぬふりをして、明示するのを避けてきた、うつつのなかの″異界″でもあるからだ。

山里の貧しい村落の掟に従って、70になろうとする母親を息子がおぶって雪ふる楢山へ捨てにいく物語は、〈親子の情愛と共同体の因習の葛藤〉といった、「かつてはあったが、今はない悲劇」としてまとめられがちだった。
しかしながら、この因習は、寒村における余儀ない「口減らし」の集団的合意と約束に沿うたものである。
すなわち、無情な「棄老」は、人間性ヒューマニズムの美辞麗句に隠された「経済的合理性」の、今でも形を変えて反復されているだろう、無言の実践でもあったのだ。

物語では山中に横たわるたくさんの白骨遺体や、70歳の父親を今まさに谷底に突き落としている隣家の男の姿などが淡々と描かれる。
このようなシーンを突きつけられ、三島由紀夫は「美と秩序へ根本的な欲求をあざ笑はれ」ている・・・という不快感を吐露しているのだが、悪夢そのものの風景が歴史の暗部に「事実」として沈んでいることを否定しはしない。
棄老伝説は「大和物語」「今昔物語集」にもあり、さらには乳児の「間びき」、障がい者殺し、「座敷牢」への閉じこめなどが、ニッポン近代の「美と秩序」と裏腹な、見るのも見せるのも憚(はばか)られるとされてきたダークサイドにいくつも伏在しつづけるからだ。

社会の暗影
相模原の障がい者殺傷事件は、こうした歴史の延長線上にありながら、あまりにも唐突かつあからさまに差しこんできた非人間的暗影であるかに見える。
だが、暗影をいとど濃く育ててきたのは、現在のこの社会ほかならない。
あの青年は「3年間の施設での勤務の中で、重度の障がい者が不幸のもとだと確信をもった」という。
不幸のもとを減らすために、重度障がい者を″駆除″してやったのであり、これは社会貢献だ・・・とでも言いたげである。
これに対し、マスコミは「遺族への謝罪はなく、今も歪(ゆが)んだ考えを持ち続け、みずからを正当化する主張をしている」と、被告の青年を常套句(じょうとうく)で非難する。
言いかえるならば、被告の青年は殺りくの「正義」を疑わず、メディアは論証抜きでその正義のゆがみを力なく弾劾している。
一年間これを見続け、私が思い浮かべたのは、新約聖書の「正しい者はいない。一人もいない」というパウロの言葉だった。
「皆迷い、だれもかれも役に立たないものとなった」が、偽(いつわ)ざる実感である。
もう一度、われわれが「人間性」と呼んできた「合意と約束」を反故(ほご)にしたのは誰か、自問しなければならない。

トランプ米大統領の選挙演説や「イスラム国」(IS)のニュースが、青年を犯行に駆り立てたという趣旨の情報もある。
障がい者殺傷事件は、日本版の選別的テロだったのであり、これから生起しようとしているさらに大きな出来事の、脈絡のつかない徴(しるし)のようにも感じられてならない。
テレビ局関係者がボヤいている。
「あの事件関連の番組では視聴率がとれない」
それぞれの不可視の異界で、今も不気味な風が吹いている。

※作家の辺見庸さん(平成29年8月5日某紙掲載)
※注:原文一部に漢字書き換えあり