朴念仁の戯言

弁膜症を経て

真実の一字 ⑩

翌(あく)る朝いつものように、私のために一時間早く来られた先生は相変わらずにこやかに座につかれましたが、どこか厳かなお声で、
「どうや、昨日の答えはできた?」
「わかりませぬ、いくら考えましてもわかりませぬが、先生はお手々で筆をお持ちになってお書きになられますが、私は口で書きますので、それで先生はカナリアに習えといわれますのでしょう?」
「なんじゃ、それでは半分しかわかっていないじゃないか」
「先生、私にはさっぱりわかりませぬ」
「わからぬ? そんなことわからぬはずはない」
「でも先生、私のような何も知らぬ者には」
「わからぬというのか」
師匠はそのまま何もおっしゃってくださらず、黙ってご本に目を向けていられます。私はとりつきようもなくしばらく自分の膝をみつめておりましたが、
「先生!」
「なんじゃ」
「あの、私、よね子の字を書け、といってくださるのでしょう?」
「そうじゃ、それをいうているのじゃ、よく私のいうたことが悟れた。私はよね子がにくくていうのでない。お前が不憫でならぬ。しかし、可哀想だからといって人の同情にあまえてはならぬ。肉体が不自由だからとて同情してくれるのもそれは今、お前が手がなくて、人がなんとかいっているうちはそれでもええ。人から忘れられたら淋しいものじゃ。私がお前にみんなと同じように手本を書いてやれば私の字のままをお前が習う。ほかのお子たちと同じ字を書く。お前はお前のままの真実の一字を生み出さねばならぬ。それには多くの字を見ることだ。多くの人の文字をひろく見て、その中から、自分の真実の個性がなんであるかを考えて永久に勉強するのだ。書の道は宗教であり、芸術であり、文化の中のすぐれた精神的のものである。人格のあらわれである。わかったなあ。今日は手きびしい私の言葉でだいぶ頭がつかれたらしい、何か甘い物で茶を一服たててあげよう」

先生は座を立たれて、次の間の水屋から何かお菓子を持ってこられました。
「よね子、良い物があった、私の好きなお骨があった」
先ほどからのお師匠のお諭(さと)しの、情のこもる一つ一つのお言葉が胸の底までしみいりまして、かたじけなさにお返事もできませず、今にも落ちようとする涙をむりにおさえていました。
「さあ、お菓子から食べさせてあげよう」
先生はそうひとりごとのようにいわれて、私にお骨というお菓子をとられ、二つに割られて私の口へおいれくださりました。その先生のお手の拳の上に一滴私の涙が落ちました。ためていた涙が、ついに先生のあたたかい、そのお心の手にこぼれました。
「どうしたんだ、お骨を食べさせてもらって泣くことがあるか。これは駿河屋のようかんや。私はこのようかんを長くしまっておいて堅くなってから食べるのが楽しみでなあ。小僧の時分から好きで私の師匠の坊がよくのこしておいてくだされたものじゃ。お骨になったようかんを口にするたび師匠の深い情けを思い出す。さあ、今度はお茶や」
先生が自らお茶をたてて飲ましていただくお服かげんのご挨拶も言葉に出ませず、先生の膝の前にとめどもなく涙がこぼれ、師のお衣までぬらすのでした。

「先生ありがとうございます。よねは勉強いたします、どんな苦しいことがありましても勉強いたします」
「そうや、お前のこれからの人生には難行苦行が待っている。私がつねにいうている言葉はみな私の遺言やとおもうてなあ、決して苦労に負けるなよ。ただ勉強だ。勉強のほかに何も思うな」

私の心は尊い師の教えに胸の底までひきしまる思いでした。
師のご恩は後々にいたるまで、どれほど私の人生の上に尊いものでありましたでしょうか。永久に忘れえぬありがたいお諭しでございました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より