朴念仁の戯言

弁膜症を経て

真実の一字 ⑨

私のような者をひろいあげ、教え導いていただきました恩師藤村叡運御僧上のことを申し上げたいと思います。
当時藤村叡運御僧上は大阪生玉にあります真言宗持明院のご院主でありました。
現代の兼好法師ともいわれた方で、歌人としてまた国文学の大家として著名な方でありました。
私が初めて持明院へ伺いましたとき、まず最初に申されましたのは、
「あんた女子(おなご)で、双腕(もろうで)のないことを悲しんでいただろうな。辛い不自由な一生を送らねばならぬと泣いている?」
「いいえ、私いまさらそんなこと思って泣いてはいませぬ。それよりも心の片輪を悲しみます。心の片輪は学問の勉強と修養によって努力すれば身に応じた幸がえられると思います。先生、私どんな辛い修行も喜んでいたします。いけないところはお叱りくださいまして、どうぞお導きくださいませ」
「フーン、えらいこというなあ。体の具合より知識の足りないのが悲しいと……なるほどそうじゃ。あんた知っているか、むかし、″塙保己一はなわほきいち)″という盲人のえらい学者があった。多くの眼の開いたお弟子たちがあって、ある晩の講義のとき、風のために灯火が消えた。するとお弟子たちは″先生ちょっと待ってください、今灯火が消えまして字が見えません″と申しますと、塙先生は″さてさて眼明きは不自由なことだなあ″といわれたそうな。さあ、そこや、この言葉をよく胸にたたんで勉強しなされ。あんたは小鳥が口一つで雛を育てているのを見て、口で字を書きだしたそうやな。ものを習うというのは鳥が教えたのや。字で書けば、羽、白し、と書いて習うという。親鳥が子鳥に飛ぶ様を教えるが、どんな鳥でも羽根を開いて飛ぶときは羽根の裏はみな白い、それをいうたものや。あんたが小鳥を見て発憤したのも、何か教えられたものがあるのだろう? 私の講義は朝の9時から午前ちゅうだが、あんた8時から来て今日のみなにする講義のところを前に教えてあげよう」
と、心からのあたたかいご同情によって、私はこの師匠のもとへ通わしていただくようになりました。

さて国文学の講義と申しましても、平仮名さえ読めぬ知識の乏しい私が、源氏物語や万葉などと、むつかしい講義を聴かせていただいてもわかるはずはありませぬ。来ておられる方々は女学校を出た方や、専門の人たちです。その中へ無智な私が飛び込んでその同じ講義を聴かせてもらいますのは、あまりにもむりな願いでありました。中には私に侮蔑の眼を向けられる人たちもありましたが、私はただ勉強のほかに何もありませんでした。

師匠はその私の耐え忍ぶ心を察しられて、いつも私をご自分のとなりの席へ坐らせてくださり、
「この子は両手がないゆえ本が開けられぬから、私の本を見せてやるので、私のそばへおいておく。可哀想に、何もできないのでなあ」
こうしてみんなにいわれますのを、私はありがたいと胸のせまる思いで感謝しておりました。
やがて一年も過ぎました。師匠は毎週塾の方々に字のお手本を書いておあげになりますのに、私には何も書いてくださいませぬ。もとより私は、他のお弟子たちと同じような文字を習う資格はありませぬ。それなればそのような習いやすいお手本を書いてくださればよいのにと思い、ついたまりかねて、私はある日師匠に、
「先生、私にも字のお手本をお書きくださいません?」
と、申しますと、師匠は、
「なんじゃ、私に手本を書けというの? それは書いてやれん、他のお弟子たちには書いてあげても、お前には私は書いてやれん、お前はお前の先生に習えばよい」
「私の先生、私の先生は、お師匠さまよりほかにはございませぬ」
「なんじゃ、何をとぼけているのじゃ、お前の先生はカナリアという小鳥じゃない?」
「でも先生」
「何が先生じゃ、よく考えて明日答えを聴こう」
といつもの先生とは思えぬきびしいお声でありました。
私はとりつきようもなくおいとまいたしましたが、帰る道すがら一心に考えましたが、もとより教育のない私に、何のよろしい答えが出てきましょう?

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より