朴念仁の戯言

弁膜症を経て

悲しみの涙 ④

捨て身の修行者が断崖から飛び、羅漢果(らかんか)を得た悦びと申しましょうか、私は自由に筆が動くうれしさで、胸がおどるのでありました。

さて、筆は思い通りに動く、さあ、何という字を書こう、と白紙に向かいました時、私の眼から大粒の涙が紙の上にぽたりぽたりと音を立てて落ちるのでありました。涙は止めようもなく流れ出ます。

私は幼い頃からあまり自分のことでは泣かなかったのですが、この時初めて心の底から泣きました。

この涙は、決して双手のないことを悲しむ涙ではありません。私の今申し上げるこの時の涙は、私の頭の中に字を知らなかったことなのです。

頭に何の字の知識も持っていなかった。あまりに空っぽの、教育も教養もない私、思いを表す一つの字もない哀れな私。踊りや鳴り物や三味線やと、小さい体の私は幼い頃から遊芸ばかりで、頭の中一ぱいにつめ込まれまして、重い荷物を負わされてきました。その中で一番大切な物が欠けていました。字を教えてもらわなかった。いや、私も遊芸ばかりに気をとられて、うかうかとしていたのでした。

学校へは行っておらなかったのです。今日から見れば、そんなばかばかしい話があるものですか。しかし60年前には、さしてやかましくもいわなかったのです。甚だしいことには、女の子に学問させると、生意気になるなどともいい、親の頭をおさえて理窟屋になるともいったものです。

私はその例に洩れず、ために文字を知らなかったのです。その意味で空白の過去が今、一度に眼の前にさらされて流れた、悲しみの涙でありました。

肉体的の不具者であっても、精神的の不具者になるまいと、一生懸命に努力をつづけている私が如何(いか)にも哀れでありました。口から思わず筆を落としまして、机の上に泣きふしました。

父も母も、幸い次の部屋にいて気がつきませんので、私は泣けるだけ泣きました。

すると私の耳もとで誰かが泣くな泣くな、泣く暇で学べ、心を落ち着けて学ぶのだ、学校へ行け、学校へ行って頼むのだ、そういったような声がいたしました。私はその声に引きずられてフラフラと部屋の外へ出まして、旅館をあとに、仙台の町を夢遊病者のように歩きました。

すると大きな建物が私の眼に入りました。それは小学校の門でありました。

私はこの門の字が何と書いてありますか、無論、知るよしはありませんが、忽然として、心の露を払われました。私の魂を蘇らせてくれた金字塔の現れでありました。

私は心を決して、この学校の門をくぐりました。19歳の双手のない、誰一人として見る者のない姿をした私を、学校の小使(こづかい)がもてあましたのも当然でした。

それはそのはずです。この未知の娘が校長先生に会わせてくれと、誰の紹介もなく飛び込こんできたのですから、小使も手をやいたのです。

ようやくのことで、私は校長先生の室(へや)へ導かれて参りました。

※仏光院の大石順教さん「無手の法悦」(春秋社)より