朴念仁の戯言

弁膜症を経て

かけた情は水に流せ 受けた恩は石に刻め

2才児発見、尾畠春夫さんが説くボランティアとしての心がけ

山口県周防大島町で行方不明になった2才の男児、藤本理稀(よしき)ちゃんを発見した「カリスマボランティア」として一躍、時の人となった尾畠春夫さん(78才)。

軽ワゴン車に食料や水、寝袋を積み込み、助ける側から一切、力を借りないことが信条だ。
「自己完結するのが真のボランティアだ」と尾畠さんは語る。

「もちろん対価や物品、飲食、これらは一切いただきません、決して″してやる″ではなく、″させていただく″の気持ちで私は臨んでいます」(尾畠さん「」内以下同)

決して経済的に恵まれているわけではない。

「私の収入は国民年金だけ。月に5万5000円です。お金がないなと思ったら、朝ご飯だけ食べて、昼と夜は食べない。それだけのことです」

阪神・淡路大震災(1995年)をきっかけに、日本でもボランティアが浸透した。しかし、最近は「モンスターボランティア」という言葉がある。ベテランのボランティアが語る。

「中には″ボランティアすれば就活に有利だから″といってスニーカーにTシャツといった軽装でやって来て倒れる若者や、夜になって『私の宿はどこですか?』と聞く人もいます。人に感謝されやすい、目立つ仕事だけやりたがって、汚れ仕事を嫌がる。仲間うちで盛り上がって、がれきを前に笑顔で記念写真を撮る人もいました」

この7月中旬、西日本豪雨被災地の岡山県倉敷市にボランティアで訪れた高知県の町議が酒を飲んで、小学校の避難所に無理やり泊まり、自衛隊が仮設した風呂にも入浴するというトラブルもあった。

女性セブン記者が「被災地には目に余るボランティアもいませんか?」と尋ねると、それまで笑顔で取材に応じていた尾畠さんが「私は人のことはあれこれ言わない。ノーコメント」と顔を曇らせた。
「日本のボランティアの質の向上のため、どうか話してほしい」と食い下がると、尾畠さんは居住まいを正し、こう話した。

東日本大震災の直後、私は避難所となっていたアリーナにいました。本来、1000人しか収容できないアリーナに1800人が避難していて、本当に満員だった。足も伸ばすことができず、女性は正座を強いられていた。そんな現場でやっと来た炊き出しに、数人のボランティアが並んで、食べていたんです。″あーっ″と思いました」

100人分の炊き出しがあっても1人のボランティアが食べれば99人分に減る。避難所でも1人分の寝場所が減る。それに気づかない人がいた。

「それでも私は何も言いません。私も一介のボランティアだからです。もちろん、『どうしたらいいんでしょう?』と訊かれれば答えますが・・・」

トレードマークの赤いハチマキやツナギにも意味がある。

「地味な色では元気が出ませんし、山で捜索するときは目立った方がいい。あまり言いたくないですが、被災地ではどさくさに紛れてドロボウが出ることもある。だから、わざと目立つ服装をしています。私は怪しい人間じゃないぞ、とね」

尾畠さんが被災者に接するときに大切にしていることがある。

「ボランティアは被災者に根掘り葉掘り訊かないことです。家が流されたかもしれないし、ご家族が亡くなったかもしれない。これからの生活に途方に暮れているかもしれない。自分が被災者だったら、あれこれ訊かれるのは嫌だなと思うんです」

もちろん、話を聞いてほしいという人がいれば、徹底的につきあう。

「東北の震災で、浮かない顔した方がいて、もし悩んでいることがあれば話してくれませんかと言ったことがあります。聞くと、倒壊しそうな家の中に、″親の形見の琴″を残してきたそうです。とび職の経験を生かして、取ってきてあげたら、たいそう喜んでくれました」

尾畠さんと一緒に活動した経験がある南三陸社会福祉協議会の三浦真悦さんの話。
「尾畠さんが特別なのは、″被災者の気持ちに寄り添える″こと。『思い出探し隊』では、誰が写っているか分からないような写真でも、″すべての写真1枚1枚に思い出がある″と、とても丁寧に集めて、汚れを落としていたのが印象的でした。尾畠さん、以前はお酒が大好きだったそうです。でも『東北から仮設住宅がなくなるまで断酒する』と、今も気持ちを寄せてくれています」

「かけた情は水に流せ、受けた恩は石に刻め」―それが尾畠さんの座右の銘だ。
苦労を苦労と思わないのは、若いときに辛さを乗り越えたゆえか。
彼の精神から学ぶべきことは多い。

※NEWSポストセブン 平成30年8月24日11:00配信(女性セブン2018年9月6日号)