朴念仁の戯言

弁膜症を経て

原爆の脅威訴え続ける

象徴のうた 平成という時代

かなかなの鳴くこの夕べ浦上の
万灯(まんどう)すでに点(とも)らむころか  平成11(1999)年 皇后

以前にも書いたことだが、天皇皇后両陛下が、どこにあっても決して黙禱(もくとう)を欠かさない大切な日が四つある。
8月6日、9日の広島、長崎への原爆投下、15日の終戦、それと沖縄戦の終った6月23日である。

美智子さまの御歌(みうた)には「長崎原爆忌」と詞書(ことばがき)がある。
その日の朝も原爆投下の午前11時2分に合わせて、お二人で黙禱を捧げられたのだろうか。
かなかなの鳴き沈むような声を聞きながら、今ごろは「浦上の万灯」にも灯が点るころでしょうかと、長崎を訪問された折のことをしみじみ話し合われたのだろうか。

この年、平成11(1999)年は天皇即位10年にあたる年であるが、その会見で陛下は戦争の惨禍を忘れず、平和のために力を尽くすことの重要性に言及し「特に戦争によって原子爆弾の被害を受けた国は日本だけであり、その強烈な破壊力と長く続く放射能の恐ろしさを世界の人々にもしっかりと理解してもらうこと」が大切であると力を込めて述べられた。

平成19年には「原子核物理学国際会議」の開会式でお言葉を述べられることになった。
この分野の物理学の輝かしい発展が社会に与えた恩恵に触れつつ「この同じ分野の研究から、大量破壊兵器が生み出され、多くの犠牲者が出たことは、誠に痛ましいこと」とされたうえで、広島・長崎のような「悲劇が繰り返されることなく、この分野の研究成果が、世界の平和と人類の幸せに役立っていくことを、切に祈る」と結ばれた。

同様の踏み込んだスピーチは原爆とは関係のない「国際実験血液学会総会」(平成13年)などでもなされている。
「当時治療法も無く、苦しみの中に次々と命を落としていった」原爆犠牲者を思う時、「国際実験血液学会総会が、今日、放射線被害に対する治療にも大きな成果を収めていることに改めて深い感慨を覚えます」と述べられた。
この分野の研究者が白血病をはじめとする原爆後遺症に無関心であってほしくないとの願いであろう。

このように陛下はあらゆる機会を捉えて、平和の尊さ、戦争の愚かしさとともに原爆の脅威を、国民に、そして世界に訴え続けてこられた。
これらは主催者側が期待した挨拶からはかなり踏み込んだ内容になっていたはずである。

原子核物理学国際会議」の挨拶について、元侍従長の渡辺允(まこと)は「内外の学者から感動したという反響があり、その中には、科学の研究に携わる者にとって初心、あるいは、日頃忘れている科学者としての心構えを呼び覚まされたという人もありました」(「天皇家の執事」)と指摘している。

平らけき世に病みゐるを訪れて
ひらすら思ふ放射能のわざ      天皇(平成元年)

広島赤十字・原爆病院」という詞書を持つ御製(ぎょせい)である。
両陛下は、被爆によって深刻な後遺症に苦しむ人々に早くから接してこられた。
原爆犠牲者やその後遺症を常に念頭に置いてこられたのは、そのような体験にもよることだろう。

そんな紛れもない内的必然性を私たち国民はよく知っているからこそ、翌年の被災70年に向けて詠まれた次のような御製にも心から感動する。

爆心地の碑に白菊を供えたり
忘れざらめや住(い)にし彼(か)の日を    天皇平成26年

この一首「忘れざらめや」は、決して修辞だけのものではなく、天皇陛下御自身の内奥からの声以外のものではない。

歌人・細胞生物学者永田和宏さん(平成30年8月2日地元紙掲載)